日本では小説の三国志演義が正史として認識されている
■ 日本では小説の三国志演義が正史として認識されている
日本では小説の三国志演義が正史として認識されている
歴史小説として有名な【三国志演義】が完成したのは三国志の時代からおおよそ1000年以上後になる明(ミン 1368年ー1644年)の時代です。日本では正史の三国志よりも小説の三国志演義(以下演義)の方が知名度はあり、多くの三国志ファンは演義のドラマチックな展開に酔いしれ、それが正史であるという風に感じ取っています。
正史と演義では確かに登場人物の模写が異なっていますが、演義のみに登場する人物もいます。多くのドラマを彩る演義において、準主役級の人物から端役といえる人物までいます。演義のみで登場する人物を以下に見ていきましょう。
董卓と呂布を引き離した絶世の美女【貂蝉】
■ 董卓と呂布を引き離した絶世の美女【貂蝉】
董卓と呂布を引き離した絶世の美女【貂蝉】
貂蝉(チョウセン)は絶世の美女として、司徒王允(オウイン 137年ー192年)の娘として登場しています。しかし、この貂蝉は王允の実の娘ではなく、幼少時に孤児だったのを王允が引き取っていました。
都に仕えていた王允でしたが、董卓(トウタク 生年不明―192年)が実権を握り、暴虐の限りを尽くしていたことに憂い、ついには董卓暗殺を決意します。董卓の側には大陸最強とも呼ばれる呂布(リョフ 生年不明―198年)がおり、王允は呂布と董卓の仲たがいをすることに注目します。
自ら囮になる覚悟をみせる貂蝉
■ 自ら囮になる覚悟をみせる貂蝉
自ら囮になる覚悟をみせる貂蝉
貂蝉はここぞとばかりに王允に恩を返そうとして、自らが囮になる覚悟を打ち明けます。王允は娘同然に可愛がってきた貂蝉を危険な目に遭わしたくないと言いますが、貂蝉は涙ながらに王允への感謝を口にし、固い決意を忍ばせていました。生半可な策では董卓を打ち倒せないと踏んだ王允は、まず貂蝉を呂布に紹介しようとします。
王允は董卓でも簡単に手出しが出来ないような実力者であり、その王允の屋敷に招かれることは光栄なことでもあることから、呂布は誘いを断ることなく、王允の屋敷へ赴きました。酒の席で気分が良くなった呂布に対し、王允は娘の貂蝉を紹介するといい、貂蝉は舞を披露します。貂蝉の美しさに虜になった呂布は、貂蝉を嫁に迎え入れることを王允に約束し、意気揚々と自宅へ帰ります。
一時期貂蝉をあきらめる董卓
■ 一時期貂蝉をあきらめる董卓
一時期貂蝉をあきらめる董卓
次に王允は董卓との酒宴の席で貂蝉を紹介し、董卓は大いに気に入ってしまいます。王允は呂布との約束は伏せたまま、董卓の下へ貂蝉を妾として差し出します。その後、呂布がやってきて王允は董卓が貂蝉を気に入ってしまったために、さらわれたといいます。怒った呂布は董卓の屋敷へ駆け寄りますが、主従関係のある董卓には強く言えず、引き下がってしまいます。
あるとき、貂蝉は呂布に近づき、董卓の元から助け出してほしいと涙ながらに訴えますが、その姿を遠巻きにみた董卓が怒り、呂布を遠ざけるようになっていきます。ここで董卓と呂布の間に亀裂が入りますが、家臣の一人が呂布の力は天下に必要で、むしろ貂蝉を渡した方が、一生恩を感じることになると董卓を諌めます。
貂蝉を譲らなくなった董卓に呂布が裏切る
■ 貂蝉を譲らなくなった董卓に呂布が裏切る
貂蝉を譲らなくなった董卓に呂布が裏切る
董卓はその意見を聞き入れてとうとう呂布に貂蝉を譲るように考え直しますが、それを伝え聞いた貂蝉は呂布の元へは行かず、董卓の側にいたいと涙で訴えます。貂蝉に心底惚れていた董卓は、土壇場で貂蝉を呂布へ渡す話を取り止めてしまいます。呂布は烈火のごとく怒り、王允はすかさず董卓を討って、呂布自身が天下の英雄になるべきだと伝えます。
ついに呂布は董卓を裏切り、暴虐の限りを尽くした董卓は呂布に殺されてしまいました。演義にはこの後貂蝉が出てくることはありませんが、日本独自の小説や漫画には、女の身一つで大きな仕事をやり遂げた貂蝉は、微笑みを浮かべたまま自害したことになっています。
関羽に尽くした山賊上がりの忠義の武将【周倉】
■ 関羽に尽くした山賊上がりの忠義の武将【周倉】
関羽に尽くした山賊上がりの忠義の武将【周倉】
周倉(シュウソウ)は関羽(カンウ 生年不明―220年)の腹心として長きに渡り活躍しました。元は黄巾賊の一員でもあり、山賊として生活をしていました。関羽が曹操(ソウソウ 155年―220年)の陣営から劉備(玄徳)(リュウビ 161年―223年)の元へ向かう道中で仲間になります。以降は劉備軍としてよりも関羽の側近として仕えます。
魏の名将【ホウ徳】を捕える活躍
■ 魏の名将【ホウ徳】を捕える活躍
魏の名将【ホウ徳】を捕える活躍
劉備(玄徳)が入蜀するころ、周倉は関羽と共に激戦区の荊州に残り、魏や呉へのにらみを利かせています。やがて荊州を手に入れようと曹操軍が攻めてきて、その中には猛将と呼び声が高いホウ徳(ホウトク 生年不明―219年)がいました。ホウ徳は関羽に手傷を負わすほど暴れまわり、関羽軍を恐れさせます。関羽は水攻めを用いて曹操軍を撃退し、ホウ徳は小船一隻となっても抵抗しますが、水の勢いでとうとう転覆し、水泳が得意という設定の周倉がホウ徳を捕えます。
関羽の死に絶望し、城壁から飛び降りる
■ 関羽の死に絶望し、城壁から飛び降りる
関羽の死に絶望し、城壁から飛び降りる
しかし、曹操と孫権(ソンケン 182年―252年)が同盟を結ぶようになると、連携して攻められ、関羽は呉の呂蒙(リョモウ 178年―219年)によって捕えられて処刑されます。それを見て嘆いた周倉は立て籠もっていた城から飛び降りて自害しています。
周倉は最期まで蜀というよりかは関羽に忠誠を誓っており、その死後には小説上の架空の人物でありながら墓が建てられています。
戦う強い女性として描かれている祝融夫人
■ 戦う強い女性として描かれている祝融夫人
戦う強い女性として描かれている祝融夫人
劉備(玄徳)の死後、その意思を継ぐべく諸葛亮(ショカツリョウ 181年―234年)は魏に対し北伐を企画します。その為には益州の南にある建寧郡を平定し、後方の憂いを無くす必要がありました。建寧郡の豪族であった孟獲(モウカク 生没年不明)は元々魏に協力していたため、南下してくる諸葛亮ら蜀軍に反抗します。
演義では孟獲を南蛮の王として取り上げ、その妻が祝融夫人(シュクユウフジン)といい、女性ながら孟獲ら男性陣にも引けを取らない武勇を披露しています。祝融夫人はナイフを投げて馬上から相手を落とし、生捕る作戦で蜀の武将たちを打ち破っていきます。
火の神の末裔として活躍する
■ 火の神の末裔として活躍する
火の神の末裔として活躍する
しかし、諸葛亮の策により、捕えられた祝融夫人は捕虜の交換で解放され、夫の孟獲とともに再度反抗します。孟獲と祝融夫人は諸葛亮に一度も勝つことが出来ず、7回戦い7度降服することで、ついに心底蜀に降る決意を果たしました。
祝融夫人は演義での架空の人物で、中国の神話上における火の神の末裔とされています。数少ない女性の登場人物でも男勝りの武将として描かれており、日本でも貂蝉と同様に知名度があります。
まとめ
■ まとめ
まとめ
歴史書の三国志が発端の演義ですが、ゲームや漫画などで三国志に興味を持った日本のファンは、貂蝉などを実在の人物として認識している節があります。もっとも、貂蝉にはモデルとなった人物がいたそうなので、一概に架空の人物とまでは言いにくいこともあります。演義にしか登場しない人物や、正史と違う描かれ方をしている人物を調べるのも三国志ファンならではの楽しみといえます。