1 黄巾賊(こうきんぞく)の出現(184年)
■ 1 黄巾賊(こうきんぞく)の出現(184年)
1 黄巾賊(こうきんぞく)の出現(184年)
三国時代の幕開けは後漢王朝の衰退に伴い出現する黄巾賊(太平道という信徒)の反乱が各地で起こったことから始まりました。わずか10数年で50万人ほどに膨れ上がった軍はまさに国の驚異となりました。その討伐にあたったのが曹操であり、劉備であり、孫堅でした。実はこのころまだ劉備は義勇兵としての参加でしたが関羽、張飛を引き連れ目覚ましい活躍を果たします。各地で起きた黄巾賊の反乱は押さえこまれたが、国への信頼はがた落ちとなり、各地で権力争いが激化しそうになりました。それが三国志の始まりです。
ちなみに黄巾賊は黄色い布を頭に巻いていたとされていて、指導者は張角(ちょうかく)という宗教・太平道の創始者です。
2 董卓(とうたく)の台頭(189年)
■ 2 董卓(とうたく)の台頭(189年)
2 董卓(とうたく)の台頭(189年)
黄巾賊を抑えるにあたって曹操、劉備(玄徳)、孫堅が目覚ましい活躍をしたわけですが、このとき最も頭角を現したのは董卓でした。董卓は官中(日本で言う皇室)を乗っ取り、国を意のままに操っていました。ただでさえ強い権力を持った董卓ですが三国志最強との呼び声高い呂布(りょふ)を養子に迎えさらにその地位を強固なものにしました。自分に都合がいいように、劉協(りゅうきょう)を皇帝にすることに成功させます。(董卓は日本で言う藤原道長のような感じですかね)さらに董卓は横暴で官女を襲ったり民衆を虐殺したりとやりたい放題でした。そのため敵が多く、「董卓討伐」を掲げる武将たちが立ち上がったのです。
3 反董卓連合軍結成と董卓の死(189年~192年)
■ 3 反董卓連合軍結成と董卓の死(189年~192年)
3 反董卓連合軍結成と董卓の死(189年~192年)
董卓討伐をもくろんだ袁紹(えんしょう)の元に各地の武将が結集し「反董卓連合」が結成されました。主な人物は曹操、夏候惇(かこうとん)、袁術(えんじゅつ)、孫堅、公孫瓚(こうそんさん)、劉備(玄徳)などです。まさに三国志のオールスターと言ったメンツが董卓討伐に動いたのです。しかし董卓を追い詰めようとするも先に反董卓連合の仲間割れが起きてしまい連合軍は崩壊してしまいます。それでも内政のトップ王允(おういん)の策略で董卓と呂布の仲たがいが実現。最終的に呂布が董卓を殺す形で董卓の悪政に幕をおろすこととなりました。董卓がいなくなったことにより各国に権力者ができ群雄割拠の戦国時代へと突入します。
4 群雄割拠の戦国時代と呂布の死(192年~207年)
■ 4 群雄割拠の戦国時代と呂布の死(192年~207年)
4 群雄割拠の戦国時代と呂布の死(192年~207年)
董卓の死後、元反董卓連合のメンバーを筆頭に各地の武将がしのぎを削ることになります。誰が台頭してもおかしくはないと言った状況でしたが曹操が若干リードしていた形です。そんな群雄割拠の状態をひたすら乱していたのが呂布です。呂布は君主をとっかえひっかえして生きながらえていました。呂布はいってみれば諸刃の剣で恐らく「こいつは裏切るのではないか」と思われつつも最強武将は欲しいと言ったところだったでしょう。結局曹操が袁術、袁紹、呂布を破り、力を蓄える形となりました。この間孫堅はなくなり息子の孫策にバトンタッチされました。
このころ劉備(玄徳)は曹操に破れたり呂布に出し抜かれたりとさんざんな目に合っていました。
5 三顧の礼と赤壁の戦い(208年)
■ 5 三顧の礼と赤壁の戦い(208年)
5 三顧の礼と赤壁の戦い(208年)
三国志の三国(魏・呉・蜀)が形成されるようになるのは208年ごろです。活躍はするもののそこまでパッとした戦果を挙げることができなかった劉備(玄徳)ですが、この頃三顧の礼で孔明を味方に付けます。孔明を得た劉備(玄徳)は徐々に頭角を現すことになりました。孔明の采配により夏候惇を撃破すると孫堅(孫策が早死にしたため弟の孫権が跡継ぎをしました)と結託してかの有名な赤壁の戦いで曹操と対峙。10万にも満たない軍勢でしたが80万を超える曹操を退けるジャイアントキリングを起こしました。力を蓄えた劉備(玄徳)は南に領土を拡大し入蜀します。その後西に構える劉璋を撃破し、三国で覇権争いをする時代に突入しました。
6 三つ巴の戦い(215年~)
■ 6 三つ巴の戦い(215年~)
6 三つ巴の戦い(215年~)
三つ巴の戦いが始まったわけですが戦はどこかが一方的に強いという訳ではなく、勝ったり負けたりを繰り返していました。一概には言えませんが曹操率いる魏は孫権率いる呉には勝つが、劉備率いる蜀に負ける。蜀は魏に勝つが後に負ける。呉は蜀に勝つが魏に負ける。と言った構図が少なからずありました。均衡が保たれた状態ですが魏では曹操が死に、蜀では劉備(玄徳)が死にました。どことなく孔明中心に三国志が形成されたような形となり、蜀は何度も魏に襲い掛かります。(魏が北に位置していたので北伐と言われています)しかし孔明が亡くなると戦局が一気に傾くこととなるのです。
7 二代目の争い(220年~)
■ 7 二代目の争い(220年~)
7 二代目の争い(220年~)
二代目になると戦いはグダグダになります。初代の時はなかった内部での覇権争いが勃発します(呉は孫権が1代目と捉えてください)。日本で三国志というとどことなく孔明の死をもって終焉という形になってしまうのはこうしたごたごたに飽きを感じるからでしょう。個人的主幹かもしれませんが、それまでの激しい覇権争いに比べこの時代は力対力というよりは策略、それも姑息な策略が増え曹操、劉備(玄徳)、孫堅が争っていたころのような華やかさはありません。どこも不安定なまま戦をします。この頃頭角を現したのが司馬懿(しばい)です。司馬懿は孔明に辛酸をなめさせられましたが経験値はしっかりあげていました。
8 晋の建国と三国時代の終焉(234年~)
■ 8 晋の建国と三国時代の終焉(234年~)
8 晋の建国と三国時代の終焉(234年~)
さて最終的に三国志はどうなったかというと晋が天下統一を果たし、幕を閉じています。えっ?晋って何?と思ってしまいますよね。晋は元々魏でしたが、司馬懿が国内でクーデターを起こし、魏を乗っ取りにかかります。しかし司馬懿の代では帝位はまだ動きませんでした。このとき魏は蜀を討ち、残るは魏と呉だけでした。司馬懿の息子である司馬昭(しばしょう)が晋王となり、その後息子の司馬炎(しばえん)が王となります。司馬炎は司馬昭の葬儀を済ませるとすぐに帝位の簒奪を試みます。あっけなく帝位についた司馬炎は魏を晋と改めます。残る呉を蹴散らせました。こうして最終的な勝者「晋」というあっけない結末を迎えるのです。
9 まとめ
■ 9 まとめ
9 まとめ
長い三国志の歴史を駆け足で説明しましたがいかがでしたでしょうか。前半戦は各地でしのぎを削りまさに戦国時代という感じでしたが、後半は尻つぼみとなってしまいました。そのため孔明が亡くなってからは拍子抜けしてしまったという人が多いかもしれません。しかし、ここでは「三国志っていつ始まったの?」とか「最終的に三国志ってどうなった?」という疑問が解消されたのではないでしょうか。