【三国志】遊戯大全~その3~

【三国志】遊戯大全~その3~

太古、仏教の伝来とともに中国から日本に伝来したものの中には、かの曹操が奨励したスポーツや関羽が好んで遊んでいたボードゲームもあります。


蹴鞠(しゅくきく)

日本には飛鳥時代である西暦600年代に、仏教とともに中国から伝来された複数人で鞠を一定以上の高さに蹴り上げて、それを地面に落とさず何回蹴り続けられるかを競う競技です。

日本は伝統を重んじる国なので、蹴鞠の大まかなルールは伝来したときと大きく変わっていませんが、発祥した中国はというと時代の流れとともに何度もルールが変更されたり、あたらしい競技が発案されたりしました。

中国の蹴鞠はいくつかバリエーションがあるようで、起源~明代までの間には40~50種類の競技が作られたそうですが、現在確認できるのは8種類程度だと言われています。

「蹴鞠」と聞くとどうしても平安時代の貴族が、動きずらそうな着物を着てポコーンポコーンと鞠を蹴り上げている様子を想像してしまい、「球遊び」としてのイメージしか我々に定着していません。しかし、三国志の時代に行われていた蹴鞠は、競技(スポーツ)という見方ができます。

蹴鞠の起源

蹴鞠ができたのは、春秋戦国時代の紀元前300年ごろ。戦国の七雄のひとつ、斉(せい)が発祥の地となっています。もともとは、軍隊の訓練として考えられたものでした。
この斉国誕生の「蹴鞠訓練」では、「鞠に手を触れずに奪い合え、手を使わなければどんな妨害をしてもよい」という制約をつけて、羽毛や毛髪を動物の革の中に詰めて作った鞠を兵士たちに奪い合う訓練でした。

兵士たちは体当たりしたり、胸や肩、脚を使って相手を妨害し鞠を奪い合いました。

漢代初期のルール

斉(せい)で蹴鞠が誕生してから約100年を経た起源前200年ごろは、春秋戦国時代に終わりを告げ、史上初の中華統一を成し遂げた秦国が滅び、高祖劉邦が前漢を起こした時期になります。この時の蹴鞠はすでに斉で行われた軍事訓練のルールとはガラリと変わり、競技のひとつとなっていました。

漢の初代皇帝劉邦は、わずか数年の在位中、宮中に「鞠城」という大規模な蹴鞠競技場を建設していました。漢代初期の蹴鞠は手を使わず足で鞠を奪い合うのはもちろんのこと、1チーム12人編成のチーム対抗で戦う競技となっており、競技場の東西の壁際に穴を6個ずつ掘り、その中へ鞠を入れると得点が入り、その点数を競い合うサッカーのような競技だったようです。

三国志時代のルール

三国志の時代に該当する後漢末期~晋代にかけて行われた蹴鞠のルールは後漢初期のものとほとんど変わりありません。大きく変わったことは、競技場東西の壁際に掘られていた穴がなくなって、球門と呼ばれるサッカーゴールのような設備が壁に設けられるようになったことです。

球門に鞠を蹴り入れると、入れたチームに得点が与えられるというルールになります。また、奪い合いは、足を掛けて転倒させたり、頭突きやタックル、ドリブルしている者への集中攻撃などますます過激になっていきました。

唐代~宋代のルール

唐代になるとますます蹴鞠の難易度は上がっていき、球門がなくなり竹製の支柱に30~40cmくらいのサイズの網を頭上の位置で括りつけたものを球門として両サイドに一つずつ設ける。競技場の中央に一つだけ球門を設けて競技を行うパターン。そもそも競技という概念から離れて数人で協力して球門に鞠を入れるパターン。ひとり、あるいは複数人で鞠を着地させずに何回蹴り上げられるかを競い合う競技などさまざまなバリエーションができました。おそらく、我が国にはこの頃に中国から蹴鞠が伝わったのではないかと思います。

遊んでいた記録が残っている人物

【漢初代皇帝(高祖) 劉邦】
前述「漢代初期のルール」にある通り。

【乱世の奸雄 曹操】
曹操は蹴鞠による練兵を重視しました。遠征中、自身の家臣や息子たちへ「たえず弓馬につとめること、そして蹴鞠を奨励した」と記されています。

【魏の文帝 曹丕】
 曹丕が魏国の皇帝を務めている年代に、景福殿講武錬兵場で蹴鞠大会が行われたとあります。

弈棊(えきき)

弈棊(えきき)は現在の囲碁のこと(以降囲碁と記載)です。単に「弈」と言うこともあります。
囲碁は対戦型のボードゲームで、2名の対戦者が碁石と呼ばれる白と黒の石を碁盤と呼ばれる盤上に置いて互いの陣地を奪い合います。

囲碁のルーツについては、はっきり分かっていませんが、三皇五帝時代の帝の堯が不出来な息子のために発明した説と占星術のシュミュレーション・計算に用いた方法がゲームへと体系化されたものであるとする説があります。

囲碁は早い時期から上流階級から庶民までが楽しむボードゲームとして人気を博し、世に広まっていきました。
春秋戦国時代の思想家にして、儒教の教祖となった孔子が「一日中何もしないよりは、六博や囲碁で遊んだほうがマシだ」と言ったことが「論語」に記されていることから、紀元前5世紀までにはボードゲームとして成立しているはずです。

現代と三国志時代のルールの違い

囲碁のルールを詳細に書こうとすると、それだけで日が暮れてしまうほどの情報量となってしまいますので、概略のものを記載します。

日本で現在行われている囲碁は競技として行われており、タイトルマッチやプロの世界が存在します。プロの棋士たちは、プロボクサーやプロゴルファーと同じように対局(試合)をしてファイトマネーを稼ぐことができます。

現在の囲碁のルールは日本にある日本棋院と関西棋院が定めた日本囲碁規約に則っています。その規約を参考にしてルールを簡単に説明すると以下のようになります。

(1)先手(先攻)が黒の石を後手(後攻)が白の石を使用する。
(2)碁盤にある線の交点に黒と白の石を交互に置いていく。
(3)地(自分の陣地)の多いほう、または相手の敗北宣言(投了)を受けると勝利。
(4)相手の打った石は上下左右を囲うと取れる。
(5)着手禁止点(自殺手)による制約を受ける。
(6)「コウ」と呼ばれる石の取り合いによって、半永久的に対局を継続できる。

これに対し、三国志時代に行われていた囲碁のルールは(5)についての制約は少なく、ある程度自由に打つことができ、陣地の多さよりも石を取り合った末、盤上に自分の石をより多く置いた者が勝ちとする勝敗のつけかたをしていたそうです。

現代と三国志時代の用具の違い

囲碁と言えば、白黒の碁石とそれを上に乗せる碁盤を誰しもが想像することでしょう。現在使用されている碁石はプラスチック製、碁盤は縦19×横19の線が入った通称十九路盤を使用することが一般的です。

しかし、三国志時代に使用されていた碁石は石や玉、ハマグリなどの貝殻を使用していたといわれています。また、後漢時代の貴族の墳墓から出土した囲碁セットと魏の邯鄲淳が著わした『芸経』よると、当時の碁盤は縦17×横17の線が入った十七路盤が使用されていたようです。碁盤の素材も木製のものもあれば岩石を削ったり彫ったりして制作したものも出土されています。

遊んでいた記録が残っている人物

【曹操の忠臣 王粲】
建安の七子のひとりで、学者・政治家である王粲は「圍棋賦(囲碁の詩)」で囲碁に関する思想を冒頭に詩っています。

【乱世の奸雄 曹操】
曹操は司馬懿などの家臣たちと囲碁の対局したり、読書をしながら息子たちを説教したと伝えられています。

【小覇王 孫策】
中国に現存する最古の棋譜(碁石をどこに置いたかを記録したもの)と言われている「孫策詔呂范弈棋図」は、孫策対呂范の対局の記録です。

まとめ

蹴鞠も囲碁も現在まで日本に受け継がれている遊戯です。蹴鞠は現代の接待ゴルフのような社交の場として、囲碁は戦略シュミュレーションとして我が国に大いに影響をもたらしました。

いまはすっかりかげりを見せてしまいましたが、つい10数年前までは「ヒカルの碁」という漫画・アニメによる囲碁ブーム、2004年に当時のFIFAの会長が「中国の蹴鞠がサッカーのルーツだ」と言って中国に認定証を送付したことで一時期世界で議論されたこともありました。

どちらも時代の流れとともにルールが変更されてきましたが、古きよき伝統としてこれからも保存と競技の普及が永遠に続くことを願っています。

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