白蓮
■ 白蓮
白蓮
花も恥じらう白姫
■ 花も恥じらう白姫
花も恥じらう白姫
曹操の父・曹嵩の後妻。曹操の実母とされていますが、正史では曹嵩の正妻の丁夫人ということになっています(ちなみに曹操の第一夫人も丁夫人)。歌妓の出身で、当時の都洛陽中の男性を虜にした国民的スーパーアイドルでした。
歌がうまいだけでなく、琴も得意であったようで曹操のお音楽指導は母親が行ったという噂もあります。
「肌の色は花より白く、花が恥じてつぼみを開かなくなるほどである」という当時洛陽を駆け巡った噂がこのあだ名の由来です。当時の美女の条件「色白、長髪、漆黒でツヤツヤした髪質」をすべて兼ね揃えた絶世の美女であったそうです。
この噂を聞いて、曹操ママの演芸を観覧した曹操パパは一目惚れ。家が2~3軒建てられるくらいの大金を身受け金として妓楼に支払い妻に迎えました。
袁術
■ 袁術
袁術
猿皇帝
■ 猿皇帝
猿皇帝
袁紹の異母弟で、四世三公を輩出する名門袁家の御曹司。袁紹は妾が生んだ子であったが、袁術は正妻の子であったので、袁紹のことを毛嫌いしていました。
当初は朝廷の官僚として働いていましたが、董卓が巻き起こした動乱期に群雄のひとりとして名乗りを上げました。反董卓連合に加盟して、それが解体された後は、孫堅の支持を得て兄の袁紹と骨肉の争いを展開します。
孫堅が「伝国の玉璽」を発見したばかりの頃、一度取り上げようとしましたが、孫堅に「そんなものは持っておりません。もし今の発言が偽りであるなら、この身に天罰が下りましょう」と言われてはぐらかされてしまいました。孫堅の没後は、孫呉の領地と兵力を吸収。数年後、孫策が「伝国の玉璽」と旧領の一部+孫呉古参の家臣を引き換えにして袁術に献上。玉璽を得た袁術が調子に乗って、皇帝を名乗り、仲王朝を勝手に打ち立てたので世の人々は「猿皇帝(皇帝を真似る猿の意)」と呼びました。
日本でも「真似っこザル/猿真似」という言葉があるように、猿は人間の真似をすることができるほど、知能レベルが高い動物であることを当時の人々は知っていたようです。
「猿」の字は、けものへんに「袁」と書きますが、何かの因縁があるのかすごく気になります。
公孫瓚伯圭
■ 公孫瓚伯圭
公孫瓚伯圭
白馬将軍
■ 白馬将軍
白馬将軍
公孫瓚は、先祖代々郡太守クラスの名家の生まれで、聡明で容姿端麗な武将であったと伝えられています。また、頭脳明晰で弁舌に優れ、巧みな話術で物事を説明することもあったそうです。
黄巾の乱で活躍し、反董卓連合に加盟するなど有力な群雄として中国全土にその名を轟かせました。
公孫瓚は武芸に秀でており、白馬に騎上して白を基調とした軍装を身に纏って戦場を駆け巡りました。また、心服させた烏桓兵(うがんへい)の中から、騎射を得意とする者を厳選して白馬に跨らせて「白馬義従」という、白馬騎兵のみの精鋭部隊を創隊。異民族からは「白馬長史(白馬将軍)」と恐れられました。
呂布奉先
■ 呂布奉先
呂布奉先
飛将軍
■ 飛将軍
飛将軍
丁原→董卓と主君を裏切って殺害して乗り換え、「裏切り者」の代名詞となっている武将です。「陣中の呂布、馬中の赤兎」と言われる強者で、武芸十八般のすべてにおいて優れており三国志最強の武将と言われています。
呂布の武勇は国中に轟き、その強さは「李広の再来」と言われました。
李広とは漢の全盛期を迎えた武帝に仕えた武将で、武帝が衛青を見出すまでは最強の武将と言われた偉人です。
騎乗しながら一度に矢を四本放つことができ、堅固な陣形を組んで幾度となく匈奴の侵攻を食い止め「飛将軍」の異名をつけられました。
その李広になぞらえて呂布についた異名も同じく「飛将軍」となりました。
梁冀伯卓
■ 梁冀伯卓
梁冀伯卓
跋扈将軍
■ 跋扈将軍
跋扈将軍
後漢王朝で外戚による汚濁政治の全盛期を極めた悪徳官僚の首領です。順帝亡き後2歳で即位した沖帝の後見人として梁皇后とともに摂政を行いました。
梁冀は酒色を好み娯楽にふけって政務をおろそかにし、賄賂を贈らない官僚は左遷や罷免をしたり、縁者の女子は後宮に、男子は王侯、重要ポストの官僚・軍人に独断で登用しました。皇帝に献上される品々は先に自分が受け取り、余りものを皇帝の手元に送りました。このような勝手放題な振る舞いを見た後漢第八代皇帝の質帝は11歳ながら聡明な皇帝でした。参内して質帝の跪く梁冀を指さして「これなるは跋扈将軍である」と言いました。「跋」は魚が水面や籠から踊り跳ねること。「扈」は漁師が捕らえた魚を入れておくための籠のことで、「手の付けようのない奴」というニュアンスのあだ名を付けました。
梁冀は質帝の聡明さを恐れて、即位してから一年ほどで毒殺。これが世の中に悪がはびこる様子を表す「○○が跋扈した」という語源です。
橋玄公祖
■ 橋玄公祖
橋玄公祖
法廷の閻魔
■ 法廷の閻魔
法廷の閻魔
曹操の名を天下知らしめるきっかけを作った法曹・政治家・軍人。
陳国相羊昌を贈収賄罪で尋問した際は、当時朝廷を牛耳っていた梁冀が羊昌を救わんと檄を発するとますます厳しく取り調べを行って遂に檻車に乗せて洛陽に送り、県令の皇甫禎を同じく贈収賄罪で逮捕した時には、苔刑(剃髪して鞭で叩く刑罰)に処して死亡するまで鞭打ちました。
軍人としては、朝鮮からの侵攻を食い止めて在職期間中の3年間、彼の治めていた地域は平和を保っていました。
若くして法曹となり、公正・悪即斬を理念として被告が大臣だろうが県令であろうが厳格に裁きを下し、罪人には一切の容赦をしませんでした。そのため、「法廷の閻魔」の異名をとり尊敬と畏怖の念を人々に抱かせました。
華佗元化
■ 華佗元化
華佗元化
神医
■ 神医
神医
華佗(華陀とも)は、後漢末期に薬学・鍼灸で傑出した才能を有した伝説的な医師。
「麻沸散」という世界初の麻酔薬、腹部切開手術、屠蘇や五禽戯という健康体操を発明したとされており、そのため民衆から朝廷の官僚に至るまでの人々が「神医」と呼び、現在でも多くの指示を得ています。
あだ名列伝~その他編~のまとめ
■ あだ名列伝~その他編~のまとめ
あだ名列伝~その他編~のまとめ
【三国志】英雄あだ名列伝のラストをお送りしました。三国志演義と正史の三国志の両方に記述されているもの。どちらか一方にしか載っていないものも記事に反映しました。
その他編には魏・呉・蜀編に掲載した人物と違って初めて目にする人物の名前もあって、あまりしっくり来ないと思われる方もいるのではないでしょうか。
あだ名や異名を聞いて、「あ~あの人のことか」と名前を思い出すことが出来たら、あなたはもう三国志マニアの仲間入りです。