劉備(玄徳)
■ 劉備(玄徳)
劉備(玄徳)
涿郡涿県楼桑里の出身。漢室の末裔だが、先祖である劉貞が年貢を納めず列候(領主)をクビになったため、母と共に筵を織って生計を立てるほど、とても貧乏な暮らしをしていました。黄巾の乱が発生すると、関羽・張飛らと共に義勇軍を結成し軍功をあげます。その功により中山国安熹県の尉に任命されたが、郡の督郵が劉備(玄徳)に不義理をしたことに軍人としての誇りがないことに腹を立て、郡の督郵を切り捨て、官を捨ててしまいます。このように保身よりも誇りを大事にする人物でした。また、劉備(玄徳)を一言で表すと「義理」という言葉がすぐに思いつくほどの義理深い人物だった。困っている人を見捨てられない性格で裏切られるとわかっていながら家来にしたりしていました。この点が冷酷な曹操との対局となる部分となっています。
―関羽雲長(かんううんちょう)―
■ ―関羽雲長(かんううんちょう)―
―関羽雲長(かんううんちょう)―
司隷河東郡解県の出身。五虎大将の1人。とても見事な顎鬚が特徴的で三国志内では「美髯公」と呼ばれています。劉備(玄徳)と出会ったときは学習塾をしており、武勇だけでなく学問にも通じていました。そのため、どんな状況においても自分を見失うことなく最善の手を打てる人物で、劉備(玄徳)に対しての忠義が深く、曹操に捕虜にされたのにも関わらず待遇され、部下に誘われたとしても劉備を裏切りませんでした。樊城の戦いにおいて、孫権軍と圧倒的な不利な状況で引けを取らない戦いをして命を落としました。関羽の武勇は敵も尊敬するほどで現在でも武神として親しまれています。
―張飛益徳(ちょうひえきとく)―
■ ―張飛益徳(ちょうひえきとく)―
―張飛益徳(ちょうひえきとく)―
幽州涿郡の出身。五虎大将の1人。年上の関羽のことを兄のように慕い、劉備(玄徳)に忠義を誓っています。黄巾族に劉備(玄徳)が襲われているところを助けたことをキッカケに、桃園の誓いを果たしました。また、兵士10000人に値するとも言われているほどの武人で、長坂の戦いでは追撃してくる曹操軍をわずかな手勢で足止めし劉備(玄徳)を逃がすことに成功しました。また、気性がとても荒く、部下であっても厳しい刑罰を行っていました。それでいて当たり散らした部下を側近に置くなどしており、劉備は日ごろから注意していたが直りませんでした。結果、日ごろから怨みをいだいていた部下の張達・范彊によって殺されました。
―趙雲子龍(ちょううんしりゅう)―
■ ―趙雲子龍(ちょううんしりゅう)―
―趙雲子龍(ちょううんしりゅう)―
冀州常山郡真定県の出身。五虎大将の1人。とても美男子だったといわれています。もともとは公孫賛の配下でしたが、青州での戦いで援軍としてかけつけた劉備(玄徳)の騎兵隊長を務めたこともあり劉備(玄徳)に仕えたいと思い始めます。公孫賛が袁紹に敗北し、主君をなくし、盗賊退治をしているときに偶然にも劉備(玄徳)との再会を果たしました。長坂の戦いにて、曹操の大軍の中から劉備(玄徳)の子阿斗(後の劉禅)を自ら抱え、また甘夫人(劉備夫人)を保護する活躍を見せています。関羽や張飛らほどの武勇はないが、ところどころの大事なポイントで劉備が頼りにしている武人です。
―黄忠漢升(こうちゅうかんしょう)―
■ ―黄忠漢升(こうちゅうかんしょう)―
―黄忠漢升(こうちゅうかんしょう)―
荊州南陽郡の出身。五虎大将の1人。荊州の劉表の配下であった韓玄(かんげん)に長年仕えたあと、曹操に一時的に仕えたが、赤壁の大戦のあとは劉備(玄徳)の配下となる。関羽に老いぼれ扱いされるほどの老人であったが、弓の名手であり、定軍山の戦いにて夏侯淵を討ち取っている。また関羽との一騎打ちでは互角に戦うなど老いても勇将であった。関羽の子(関平)、張飛の子(張苞)と一緒に進軍したときに「まだ若い者に負けん」といって、呉軍の藩璋、周泰を1度は追い払いますが、馬忠に打たれた弓矢の傷によってこの世を去ります。
―馬超孟起(ばちょうもうき)―
■ ―馬超孟起(ばちょうもうき)―
―馬超孟起(ばちょうもうき)―
司隷扶風郡茂陵県の出身。五虎大将の1人。錦の馬超と呼ばれ、わずか17歳で敵将の李蒙、王方を討ち取るなどの功績をあげている。韓遂という武将とたびたび喧嘩をしているが、曹操に子どもを人質にとられていることに反感を持ち、10万の軍勢を率いて潼関にて共闘している。しかし、曹操の策略にはまり、韓遂が裏切り敗北を喫してしまう。この敗北の後に巡り巡って劉備(玄徳)に仕えるのである。劉備(玄徳)に仕えた期間は短く、目立った手柄は立ててないものの、孔明や関羽らに一目を置かれている存在である。
―諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)―
■ ―諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)―
―諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)―
出身は不明。劉備(玄徳)が「伏龍と鳳雛を手に入れれば天下を握れる」というのを聞き、伏龍の孔明を三顧の礼によって蜀の軍師として迎えた。伏龍とは、天に昇らない龍のことで孔明自身がとても謙虚であったことを示す。劉備(玄徳)に天下三分の計(二大勢力の曹操・孫権に対して劉備(玄徳)が対抗し、天下を3人で治めること)を提案します。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」というように、孔明は自分が死んだあとでも、魏の軍師、司馬懿仲達を錯乱させるほどの先見の明と深い思慮がありました。様々な戦で軍略を張り巡らせる孔明。三国志は孔明が出てくるところから、さらに面白みが増します。
―龐統士元(ほうとうしげん)―
■ ―龐統士元(ほうとうしげん)―
―龐統士元(ほうとうしげん)―
荊州、襄陽郡の出身。「伏龍と鳳雛」といって孔明と並ぶ頭脳を持つ。しかし、頭脳以外は孔明とは真逆で、容姿はひどく、態度も大きく、最初はさすがの劉備(玄徳)も悪印象で、耒陽という県令に飛ばしました。龐統は仕事もせずに半年間、お酒を飲んではだらけた生活をしていましたが、戒めに来た張飛の前で半年の仕事を半日で終わらしてしまいます。また、龐統の大きな功績として、益州の攻略があります。益州は劉備(玄徳)と同じ名の劉璋が治めていましたが、「魏や呉に取られるより同族のあなた(劉備(玄徳))が取った方がいい」と進言し、劉備(玄徳)を焚きつけました。益州攻略後、龐統は戦闘の流れ矢にあたり、36歳という若さで亡くなりました。
まとめ
■ まとめ
まとめ
いかがだったでしょうか?劉備(玄徳)のもとには五虎大将(関羽・張飛・趙雲・黄忠・馬超)に加え、伏龍(孔明)と鳳雛(龐統)の2人の天才軍師が仕えており、人材は豊富だったといえるでしょう。しかし、これで全てではありません。魏延や姜維、華佗など他にもたくさんいます。また蜀だけでなく、魏や呉などにも魅力的な武将たちが三国志にはいます。それぞれの立場、それぞれの思いを考えることで、より三国志を楽しむことができるのではないでしょうか?