必殺の計略
■ 必殺の計略
必殺の計略
三国志の醍醐味の一つといえば、智謀を尽くして相手を見事に出し抜いた、数々の計略たちでしょう。
大きな戦から、小さな駆け引きまで、三国志の世界では大小さまざまな計略が、各陣営の勝敗を決して来ました。
特に三国志演義には、正史以上に派手でわくわくする計略がたくさんあります。
そんなわけで今回は、そんな計略たちのなかからいくつかをピックアップしてご紹介してみたいと思います。
駆虎呑狼の計
■ 駆虎呑狼の計
駆虎呑狼の計
駆虎呑狼の計は、三国志初期の時代に魏の参謀荀イクが仕掛けた計略。そのお相手は劉備(玄徳)と呂布でした。豹を虎にけしかけて、虎の巣穴が空になった隙を狼に襲わせるというのが荀イクの考えでした。ここでいう豹は袁術、虎は劉備(玄徳)、狼は呂布のことです。
「駆虎呑狼」とは直訳すれば「虎を駆って狼を呑ませる」という意味。駆虎呑狼の計は、徐州を得て当時勢いを増しつつあった劉備(玄徳)と呂布を仲違いさせて討つために仕掛けた計略のことです。
まず荀イクは、当時一大勢力を築いていた袁術に対し「劉備(玄徳)が『袁術の治める南郡を攻めたい』と言ってきたのですが……」と伝え、その後で劉備(玄徳)に向かって「袁術を討伐せよ!」との勅命を出します。
こうして袁術と劉備(玄徳)を争わせておけば、呂布は必ずその隙に劉備(玄徳)を裏切って劉備(玄徳)の土地を奪うだろう、というのが荀イクの目論見でした。
袁術は荀イクからの密告を聞くと「草履売りの分際で生意気な!」と怒り、即座に対劉備へ軍を差し向けます。
そのころ曹操軍は献帝を手中に収めていたので、勅命を受け取った劉備(玄徳)はそれが曹操の仕掛けた計略だと見抜いていたのですが「帝の名前が入った勅命に背くわけにはいかない」と反撃の兵を起こすことになりました。
かくして期せずして戦うことになった袁術軍と劉備(玄徳)軍。
劉備(玄徳)は徐州の留守を任せた張飛の失態&曹豹の裏切りもあり、荀イクの狙い通り徐州を呂布に奪われる結果となってしまったのです。
十面埋伏の計
■ 十面埋伏の計
十面埋伏の計
三国志初期の最大の見せ場といえば、袁紹と曹操が戦った天下分け目の決戦「官渡の戦い」です。
官渡の戦いに負けた袁紹はその後勢いを失していくことになるのですが、とはいえ敗戦後すぐに没落したわけではありません。
そんな袁紹にとどめを刺したのが、程イクの計略である「十面埋伏の計」です。
官渡の戦いから2年後、再起をかけた袁紹は総勢20万という大軍を率いて、倉亭にて曹操軍と対峙しました。もう後がない必死の袁紹軍は、初戦では曹操軍を圧倒し優勢にことを運びました。
ここで負けては官渡の勝利が無意味になってしまう曹操軍。そこで参謀の程イクが進言したのが十面埋伏の計でした。
曹操は程イクの言に従って、部隊を左右に5つずつ分けて伏兵として潜ませ、自身は本体を率いて出陣
します。
曹操は袁紹と会敵するとゆるゆる退却し、黄河川岸まで引き返します。そして川岸に到着すると即座に反転し、背水の陣で袁紹軍に斬りかかりました。
勢いにのって進軍していた袁紹軍は、曹操の思わぬ反撃にいったん体制を立て直そうと軍を引き返し始めました。
ここで程イクは、狙い通り十面埋伏の計を仕掛けます。
まず袁紹が逃げようとするところに夏侯淵と楽進が左右から襲い掛かり、何とか振り切って逃げ延びたところに今度は徐晃と李典が左右から現れて道を塞ぎます。
袁紹はなんとか自軍陣地まで逃げ帰りますが、今度は張コウと張遼が気勢を上げながら突撃! あわてて逃げ出すと、さらに夏侯惇と曹洪が激しい追撃をしかけました。
こうして、魏軍のオールスターによる波状攻撃をまともに受けた袁紹軍は満身創痍でなんとか自国へと逃げ帰ったのです。
この惨敗に対して袁紹は「天が私を滅ぼそうとしているのだろうか……」と意気消沈し、まもなく病死してしまったそうです。
偽城の計
■ 偽城の計
偽城の計
太閤秀吉が出世するきっかけとなった偉業といえば、墨俣一夜城のエピソードが有名です。
墨俣一夜城は、当時難所といわれていた墨俣の地に、わずかな期間で城を築き上げた秀吉の機転が評価される出来事ですが、それよりも遥か前の三国志の時代にも、同じようなことをしてのけた武将が居ました。
曹丕が大軍を率いて呉を攻めようとした際、徐盛が見事にこれを守りきった計略が「擬城の計」です。
時は三国志中期、劉備(玄徳)が呉の領土だった荊州を占領し蜀の勢力を築くと、孫権は体制を整えるために一旦は魏に形だけの臣従を結びました。
しかしもちろん魏に下る気などない孫権。夷廖の戦いで劉備(玄徳)軍を撃退すると、すぐにこの同盟を反故にしてしまいました。
これに怒った曹丕は、水軍を率いて自ら南下すると、長江下流の広稜という地に到着しました。
予想外の位置から突然現れた魏軍に驚いた呉軍。急遽開かれた軍議において、徐盛は驚くべき策略を披露しました。
「長江に船を並べて近づけないようにしておいて、対岸に木で骨組みと葦のむしろを被せた作った偽りの城壁を作り上げれば敵はたやすく攻め入ってこられないに違いない!」
かくして早速作業に取り掛かった徐盛は、まさしく一夜にして数百里に渡って偽の城壁を作り上げてしまったのです。
対岸にいた曹丕は突如現れた巨大な城壁にすっかり驚いてしまい、軍を動かせなくなってしまいます。
その後、様子を伺っているうちに大雨が訪れ長江が氾濫。曹丕の乗った船が転覆しそうになったため、曹丕は一度も呉軍と交戦することなく、やむなく撤退を余儀なくされたのでした。
苦肉の計
■ 苦肉の計
苦肉の計
最後は、故事成語にもなっている苦肉の計です。
こちらは三国志最大の大戦である赤壁の戦いにおいて、呉軍を勝利に導いたまさに必殺の計略です。
曹操軍の大軍に攻められた呉軍の周瑜は、数的不利を覆そうと計略の隙を伺っていました。
そんな赤壁開戦直前のある日、魏から蔡中と蔡和という二人が呉へと投降してきます。これを魏軍のスパイだと即座に見抜いた周瑜は、老将の黄蓋と画策し、苦肉の計をしかけます。
翌日、諸将を集めた席で黄蓋は「もし今月中に敵を倒せないようなら、今から降伏しておいたほうがまだマシだ」と周瑜を非難。これに怒った周瑜は、黄蓋を棒打ちの刑に処しました。
背中が裂けて何度も意識を失うほど激しく打ち付けられた黄蓋は、その日のうちに曹操宛に投降したいという旨の書簡を送りました。
激しい刑罰の様子を蔡中たちから聞いていた曹操は、すっかりこの降伏を信じきってしまい、果たして曹操陣営の船団に近づき、舟に火をつけることに成功したのでした。
まとめ
■ まとめ
まとめ
というわけで今回は、三国志の見せ場のひとつである計略についてピックアップしてご紹介しました。
ただ単純に武力でぶつかり合うだけでなく、智謀と智謀が激しくぶつかり合うところも、三国志の魅力のひとつ。また、計略を駆使することによって不利な側が強者を打ち破るというところも、三国志をより面白くしている要素のひとつでしょう。
三国志には、演義・正史を問わず今回ご紹介できなかった面白い計略がまだまだたくさんありますので、機会がありましたらそちらもご紹介したいと思います。