三国志の時代に行われた儀式【後編】

三国志の時代に行われた儀式【後編】

三国志の時代に行われた儀式【前編】に引き続き、三国志時代に行われていた儀式やそれに用いられたアイテムについてご紹介します。


三国志のストーリーを際立たせる儀式

三国志のストーリーを際立たせる儀式

三国志のストーリーを際立たせる儀式

「三国志演義」が多くの人々を魅了した要素の一つとして大道教主張角、蜀の参謀諸葛亮のマジカルな活躍があります。なぜ、マジカルと表現したかというと彼らは方術と知略をもって、摩訶不思議な戦法や赤壁大戦の火攻めに欠かせない「東南の風」を吹かせるなど常人にはできない神秘的な力を持った人物として描かれているからです。諸葛亮は七星壇を築かせ儀式を執り行い、火攻めに欠かせない「東南の風」を吹かせます。張角は、方術を用いて官軍を追い返し、諸侯連合軍も手を焼かされました。ここでも儀式が行われていたのが実に面白いことです。

黄巾党のリーダー大道教主張角

黄巾党のリーダー大道教主張角

黄巾党のリーダー大道教主張角

黄巾党には、宦官、学者、武人なども在籍していましたが、数の上では圧倒的に庶民が勝っていました。なので、レジスタンスとは言えども戦に関しては、まったくのド素人集団です。訓練もろくに受けておらず、トレーニングといえば専ら日々の水汲みや農耕作業しかない彼らが軍人と戦っても死ぬことは必須…かに思われていました。
そのとき、大道教主張角と張宝、張梁の3兄弟が対官軍のための儀式を行いました。

張角 砂嵐を呼ぶ

張角 砂嵐を呼ぶ

張角 砂嵐を呼ぶ

先のスローガンを掲げて一致団結しいよいよ決起を果たした黄巾党を率いる張角には、対官軍のための秘策がありました。張角は自軍の砦に祭壇を各所に設け、「砂嵐」を呼ぶ儀式を行いました。
その方術は太平要術と呼ばれる道教の秘術。祭壇の四隅に鼎(足のついた大鍋)を設置し、火を放つと燃料もなにもないのに、鼎からたちまち炎が上がりました。すると、砂塵とともに強烈な風が吹き始めました。
張角が曰く「この鼎の炎が消えぬ限り、この砂嵐がやむことはない。なので、もし攻め込まれてもこの祭壇さえ死守できれば、敵は戦わずして体力を消耗することだろう」と。

張宝の操る幻の兵

張宝の操る幻の兵

張宝の操る幻の兵

張角の弟、張宝の方術は兄のものよりさらに手強いものでした。憑依の儀式を執り行い、死者の霊魂をある依り代に憑りつかせて戦わせるというものでした。その儀式によって出現した兵士は、斬りつけてもモヤのように剣に手ごたえがないが、相手からのダメージは与えられてしまう。まさに幻の兵士を出現させたのです。

この思いもしない出来事に完璧に逃げ腰になった大将軍の何進は3日と持ちこたえられずすぐに洛陽へトンボ帰り。官吏や宦官の子息たちは己の保身にはしり出兵することを拒んだので、諸侯や義勇軍を頼らずにはいられなくなりました。

儀式には儀式を

儀式には儀式を

儀式には儀式を

ハンムラビ法典の「目には目を…」ではないですが、張宝の幻兵を打ち破るために義勇軍の劉備(玄徳)が行ったことは儀式でした。その儀式の詳細は、犬と豚を500頭殺してその血を絞りとり天地の神々に祈って絞りとった血を清めました。
その血を桶になみなみと注ぎ、高所から張宝の幻兵に向けてまき散らしました。清められた血を浴びた幻兵は藁人形となりボタボタと落ちていき張宝は逃走したところを追討されました。

諸葛亮の儀式が幸運をもたらす赤壁大戦

諸葛亮の儀式が幸運をもたらす赤壁大戦

諸葛亮の儀式が幸運をもたらす赤壁大戦

官渡の戦いで袁紹に勝利し、ノリにノッていた曹操が侵攻したのは荊州。蜀と呉は領地問題でゴタゴタしていたもののそれどころではなくなってしまい、その件については一時保留にして曹軍に下るか抵抗するかの選択を強いられました。かくかくしかじか蜀と呉で手を携え、来たる曹軍と対決することになります。その対決の地は長江の赤壁。そうです、あの大ヒット映画「レッドクリフ」の舞台です。

東南の風は欠かせない

東南の風は欠かせない

東南の風は欠かせない

火計を用いることを決めた周瑜の悩みは解消できずにいました。あるとき、そのプレッシャーから心労を患い、周瑜は幕舎で病床に伏せってしまいます。諸葛亮は魯粛に仲介してもらい周瑜のお見舞いをしに来ました。なんでも、諸葛亮は、自分なら周瑜の病を治せると言うのです。

「それは本当か?」と半信半疑な魯粛と周瑜。諸葛亮は人払いをして周瑜の文机を借りると紙に何かを書き入れました。そして、「これが周公の病原です」と言って、いましがた書き上げた文書を周瑜に差し出しました。その文書には、「曹公を破らんと欲せば、宜しく火攻めを用うべし。万事ともに備われど、ただ東風を欠く。」と書かれていました。心中を見抜かれた周瑜は、正直に打ち明けました。

すると諸葛亮が「手前が東南の風を吹かせてみましょう」と申し入れます。その代り、南屏山に七星壇という祭壇を築くため、呉から作業員を出してほしいとも要求しました。魯粛の説得の甲斐もあり、周瑜はそれに同意して精鋭500人の兵を七星壇建築のために送りました。その兵士たちは、諸葛亮の指示のとおり七星壇を作りました。

七星壇の儀式のあらまし

七星壇の儀式のあらまし

七星壇の儀式のあらまし

魯粛でさえも七星壇の儀式を見れていない

魯粛でさえも七星壇の儀式を見れていない

魯粛でさえも七星壇の儀式を見れていない

魯粛 「孔明殿、これからどんな儀式を行うのだ?もし、東南の風が吹かなければ火計を企てたこ
    らに被害が及んでしまう。そうなれば、邪教を信じて周都督を惑わせたとして私が罰せられ
    てしまう。ぜひとも、お教え願いたい」
諸葛亮 「ははは、魯殿ご安心なされ。わたしはこれより三日三晩天に祈りを捧げ、必ず東南の風
     をご覧にしてみせましょう。兵120名をここに残し、君は呉の陣営に帰還されたい」

諸葛亮は残した120名の兵士に旗を持たせて七星壇を守るよう命じます。それから諸葛亮は、斎戒沐浴して道衣をまとい、髪をさばいて素足になり七星壇に登ると、香炉や線香、木剣など儀式の準備に取り掛かります。
魯粛を帰らせたあと、旗を持たせた兵士たちに儀式中の私語、無駄口を禁じて「何があってもたじろぐな(騒ぐな)」と念押しして儀式を開始します。
この儀式では、剣舞をひたすら舞い続けていた。護符を焚き上げて呪文を唱えていたとも言われていますが、詳しい記録は残されていません。

諸葛亮が七星壇で祈りを捧げている一方で、魯粛と周瑜は肝を冷やしていました。なぜなら、火付役の黄蓋が工作船で出発する刻限が近づいていたからです。曹操を懐柔することに成功したものの、東南の風が吹かなければ火をつけた自分たちを危険にさらす恐れがあったからです。
いよいよ黄蓋が出発する時刻になると黄蓋は覚悟をきめ、出発します。すると、急に風向きに変わり東南の風が吹き始めました。黄蓋が乗った工作船は炎を上げて、曹操の予想を上回るスピードで魏の大船団に突っ込み火計は大成功しました。

犠牲獣と食えない策士

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犠牲獣と食えない策士

犬の血の効力

犬の血の効力

犬の血の効力

黄巾の乱で劉備(玄徳)が犠牲に捧げた豚や犬ですが、犬の血には厄除け/魔除けの力があったと信じられていたことは前作の記事でも紹介しました。劉備(玄徳)は穢れを払う犬の血の効果を信じて張宝の方術を破りました。また、皇帝や将軍が遠征に行く際には、道中の安全を祈願するため、盛り土に打ち付けた杭に犬を縛り付け、わざと馬車に犬を轢き殺させてから出発しました。これも、車輪や脚を犬の血で清める目的がありました。
今もこの風習が残っているのであれば、世界中の愛犬家や動物愛護団体のすべてを敵に回したことでしょう。

七星壇はパフォーマンスに信憑性を与えるための舞台

七星壇はパフォーマンスに信憑性を与えるための舞台

七星壇はパフォーマンスに信憑性を与えるための舞台

実は東南の風を吹かせるのに七星壇はいらなかったようです。その根拠とした材料は3つあります。
1つ目は赤壁大戦で周瑜に「1万本の矢を用意しろ」とムチャブリされた諸葛亮が3日の猶予を申し入れて、霧の濃い日に藁人形を立てた船を使って見事に敵を欺き、矢を回収した話は有名です。その話中で「私は気象を読む技を習得していたので、霧の出る日が事前にわかっていました。だから3日と刻限を指定したのですよ」と言っています。
2つ目は赤壁大戦の前に地元の漁師や農家にその土地の気候や地理を事前に聞いて回っていた。つまり調査していたとされているからです。漁師は風向きや潮の流れを読んで魚を得るため、長年の勘で正確な気候を予測することができます。それらの人々を頼って東南の風が吹くことを知っていたのではないかと思われます。
3つ目は蜀軍の立場です。赤壁大戦で蜀軍は大半守備に徹して傍観する立場をとっています。そのため、もし勝ったとしても「おめーらなんにもしてねーじゃん」と呉軍に言われかねない状態でした。「なにか爪痕を残さなくては…あっそうだ。東南の風を自分が吹かせたことにしてしまおう!!」諸葛亮はこのように考え、おいしいとこを持って行ったような形で蜀軍の立場を守ったと考えられます。

まとめ

まとめ

まとめ

いかがでしたでしょうか?
儀式においては、生贄や聖職者のわざとらしいパフォーマンスはつきものです。思わず目を覆いたくなるような内容を書いてしまいましたが、当時はごく当たり前に行われていたものです。また、太平要術については、もとは方術をもって病気や怪我を治療する医術だったので物語を面白くするために加えられた虚構だと思いますし、軍人が一般人に負けるなんて恥ずかしい。なにかそれなりの理由がなければ面目が立たないと軍人たちがこじつけた可能性も否定できません。
糧をえるために毎日肉体を酷使して働いていた一般人と金で職位を買い訓練をろくにせず、食っちゃ寝ばかりしていた漢の軍人とでは圧倒的体力差があって、一般人に軍人が敗北してしまったんじゃないかなと私は考えます。





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