中華人民共和国の建国者 毛沢東
■ 中華人民共和国の建国者 毛沢東
中華人民共和国の建国者 毛沢東
中華人民共和国(以降中国と記述)の建国者である毛沢東は天安門に肖像画が飾られ、中国人だけでなく世界中の人々も認知している偉人です。毛沢東はかつて戦後中国の経済力を回復するために国民に向けてキャッチーなフレーズから始まる演説をして多くの支持を得ました。そのキャッチーなフレーズというのが「国民はみな阿斗になってはいけない!みんなは庶民の出から帝になった劉備(玄徳)になるべきだ!」。この一言は多くの国民の心を鷲掴みにしました。当時の中国国民は支配されることに慣れてしまい、高い志を失っていた頃でした。毛沢東は「国民ひとりひとりが身分の高低に関わらず、物事や生き方をしっかり考えて行動しなさい」という意味を先のフレーズに込めました。
毛沢東はイタズラ少年だった?
■ 毛沢東はイタズラ少年だった?
毛沢東はイタズラ少年だった?
世界の約4割を占める人々の頂点に立っただけあって毛沢東はカリスマ的な資質がありました。しかし、毛沢東は人一倍勉強ができて仕事もピカイチだったかと言うとそうではありません。毛沢東の伝記によると彼は少年時代、まるで劉備(玄徳)のように真面目に勉強せず、学校に本を持ち込んでは授業中にコッソリと読むことが日課だったそうです。そしてそのときに読んでいたのが何を隠そう三国志演義でした。上記の演説は三国志ファンである彼らしい演説であったと言えるでしょう。
江戸時代の売れっ子作家 滝沢馬琴
■ 江戸時代の売れっ子作家 滝沢馬琴
江戸時代の売れっ子作家 滝沢馬琴
滝沢馬琴と言えば江戸時代を代表する売れっ子作家です。彼の代表作は「南総里見八犬伝」や「東海道中膝栗毛」など現代人が読んでも面白いと思える名著です。特に「南総里見八犬伝」は2度の映画化、ドラマ化、漫画化もされるほど、原作を読んだことがなくても「あーあれね」と誰もがうなずくことでしょう。
その滝沢馬琴が憧れていた人物は三国志演義の作者である羅貫中です。滝沢馬琴は三国志演義を真似て戦国武将の上杉謙信、武田信玄、北条氏康を魏、蜀、呉に見立てて日本版三国志も書いています。さらにそれだけでなく、三国志演義や水滸伝、西遊記の描写を自身の作品に取り込んでいる部分も見られ羅貫中の残した作品をとことん研究していたようです。
源頼朝、義経の長兄 源義家
■ 源頼朝、義経の長兄 源義家
源頼朝、義経の長兄 源義家
源頼朝、義経兄弟ほど有名ではありませんが、彼らの長兄源義家は三国志を武士のバイブルとして学んでいた人物です。源義経は一乗谷の逆落としや鵯越え、八艘跳びなど驚異的な身体能力を活かして奇襲戦法を得意とし戦上手と言われていますが長兄の義家は兄弟のなかで最も腕っぷしが強かったと言われています。義家個人があまりにも強すぎてついたあだ名が「悪源太」、「悪郎太郎」です。その義家は残念なことに多勢に無勢であるところを平家の武士たちに捕らえられてしまいます。囚われの身となった義家は平家の棟梁平清盛の六波羅邸宅に護送され、母親や兄弟たちの目の前で斬首されました。その処刑前に今生の別れのひとこととして三国志演義からのフレーズを引用してこの世を去りました。
ちなみに源義家は教科書には出て来ませんが、太平記に登場するので気になる方はぜひ太平記をご覧ください。
売れっ子浮世絵師 葛飾北斎
■ 売れっ子浮世絵師 葛飾北斎
売れっ子浮世絵師 葛飾北斎
葛飾北斎と言えば富嶽三十六景を描き、風景画だけでなく春画や動物画、北斎漫画などありとあらゆる絵画を残し、死ぬ直前まで絵を描くことを辞めなかったと言われる浮世絵師です。浮世絵と言われれば誰しもが「葛飾北斎」とその名を挙げることでしょう。その葛飾北斎はデビュー当時、美人画と武者絵を得意としていました。美人画は文字通り美しい女性の絵ですが、武者絵は武将の絵のことです。葛飾北斎は源義経や武蔵坊弁慶だけでなく、三国志に登場する劉備(玄徳)、関羽(雲長)、張飛(益徳)の義兄弟や曹操(孟徳)、周瑜(公瑾)、呂布(奉先)などの絵も描いていました。また、偶然にも葛飾北斎と売れっ子作家滝沢馬琴は10歳くらいの年齢差であり、葛飾北斎は滝沢馬琴とコラボし、話を滝沢馬琴が挿絵を葛飾北斎が描いて本を出版したこともあります。
葛飾北斎の描く武者絵はとても人気が高く、鯉のぼりや五月人形を飾る端午の節句の前は飛ぶように売れていったと言われています。葛飾北斎の名を一躍有名にさせたのは富士山を様々な角度から描いた富嶽三十六景ではなく、武者絵であるから驚きです。時系列で言うと武者絵の方が先に描かれていますので、もし葛飾北斎が三国志の登場人物たちを描く武者絵を描いていなかったら世界的に注目を集める富嶽三十六景はこの世に存在しないことになります。
新選組局長 近藤勇
■ 新選組局長 近藤勇
新選組局長 近藤勇
新選組と言えば「武士よりも武士らしい」ほとんどが浪人出身の人々で結成された集団です。幕末を好きな方なら坂本龍馬、土方歳三らとともに必ず名前を挙げるであろう新選組局長の近藤勇も三国志ファンのひとりです。
近藤勇は個人経営の天然理心流という剣術道場の道場主でした。身分上は武士ではなくいち町民でしたが、将軍を警護し当時は治安が悪かった京都の治安維持のために募集された浪士組に志願し御上(江戸幕府将軍)から特別に武士に匹敵する身分とお役を賜りました。
近藤勇、土方俊三、沖田総司など新選組創始メンバーは自分たちの身分にコンプレックスがありました。新選組の前身である浪士組時代は周りの武士たちからは「庶民のくせに帯刀しやがって、身の程をわきまえろ」と罵倒されたり、町民たちからは「武士の真似事なんかして、元は浪人(失業者)のくせに」などと馬鹿にされることもしばしばあり、やるせない思いに苦悩する毎日を送っていました。「武士道とは?」、「武士よりも武士らしくなるためにはどうしたらいい?」そういう自問自答を繰り返し近藤勇が行き着いたのが三国志演義でした。
もちろん、「韓非子」や「孫子兵法」、「論語」など武士が習わなければならないとされる書物も真似をして読んでいたでしょうが、中でも愛読書としたのはやはり三国志演義でした。
近藤勇も三国志演義に登場する武将たちのセリフや戦場での獅子奮迅の活躍に心を躍らせ、自分たちの目標とする人物像として憧れの念を抱いていたことでしょう。
新選組は吉原や河原町といった治安の特に悪かったところで治安維持のために不安因子である過激派浪士たちを相手に毎日死と隣り合わせの仕事をしていました。そのような自分たちと三国志の武将たちの生きざまを重ね合わせていたに違いありません。
まとめ
■ まとめ
まとめ
三国志演義に影響を受けた偉人たちについて記事にしてみました。さてどうでしょうか?あなたもご存知のあの偉人や憧れの偉人も三国志演義の虜となり、ファンとなって物語の行く末にハラハラ、ドキドキし、「あの人のようになりたい」、「あの人の生き方を見習おう」と三国志を人生の道しるべにしていました。これを顧みれば雲の上の存在のように思っていた偉人たちに対してより親近感が湧くと思います。