武将や軍師を支える役割 戦争に同行した非戦闘員たち

武将や軍師を支える役割 戦争に同行した非戦闘員たち

三国志と言えばどうしても武将や軍師たちの活躍が目立ってしまいます。ところが、戦争には戦わずして自国のために活動する非戦闘員に該当する者らも同行していました。本記事では、三国志において戦争に同行していた非戦闘員にスポットを当てます。


武将や軍師だけじゃ戦争は勝てない

戦争というものは実戦に投入される兵士、それらを率いる武将、智謀をもって軍を勝利へ導く軍師の才能があっても、それだけでは常に勝つことは難しいです。
孫子の兵法にもある通り、戦争を有利に進めるためには戦況がよく見える場所、攻めにくいところに拠点を置くこと。味方兵士の士気をコントロールすること。水や食料、武器が常に供給できるように補給ルートを確保することなど様々なポイントがあります。
また、戦争をして終わりというわけにはいかず戦時中に罪を犯した者への処罰や敵国の捕虜、国力を回復させるための措置など戦争をした後もしっかり処理をしておかなければ後々謀反の火種となるため、それらをないがしろにすることはできません。
三国志に登場する曹操(孟徳)、劉備(玄徳)、諸葛亮(孔明)、孫権(仲謀)などは戦前、戦時中、戦後において普段は職人や第一次産業の従事者、文学に優れた官僚など非戦闘員たちの力を狩りました。

第一産業従事者はいろいろな場面で鍵を握る

三国志において最も有名な戦いである赤壁大戦。この戦いは曹操(孟徳)率いる魏の大船団に孫権(仲謀)、劉備(玄徳)が連合軍としてタッグを組み衝突した戦いですが、意外にもこの戦いで鍵を握っていたのは普段は漁師として魚を捕り生計を立てていたものたちでした。
呉軍の水軍が特に強かったその理由は第一に水軍の構成員の大半の本業が漁師だったからです。彼らは本業は漁師だが有事の際は兵士となって攻防に努める者たち。彼らは長年の自分の経験や勘を頼りに潮の流れを読み、天気を読むだけでなく優れた操縦で舟を操り敵を圧倒しました。
また、赤壁大戦では諸葛亮(孔明)が七星壇にて儀式を行い時期外れの東南の風を呼んだり、霧の発生する日にちを予想してたったの3日で10万本の矢を収集したと言われていますが、これはすべて地元漁師に聞き込み調査を行っていて定めた期日だったりパフォーマンスだったことが言い伝えられています。
また、野山に分け入って動物を狩る猟師たちは東西南北がわかりにくい山の中の行軍や奇襲作戦に置いて案内役を務めていたこともわかっています。地元の猟師にとって岩や木々が生い茂り、迷ってしまいそうな山の中は自分の庭です。どこに何があってどういう地形なのか頭の中で地図がすでに出来上がっていたのです。彼らの多くは優れた射手でもあったので、戦時中は弓兵としても活躍しました。

異民族の力を借りた例

中国はとても広大な国土を持っており、湿原地帯もあれば木々が鬱蒼と茂る場所や見渡す限り砂漠だらけの土地もあります。
人間が生きるためにどうしても欠かせないもの。それは水です。医師たちの研究成果によると人間は水は無限に与えるが食料は一切与えない環境下では7日間生きることができると言っていますが、水さえ絶たれた環境下ではたった3日間しか生きることができないと言われています。
そのため、砂漠地帯を行軍する際は節水に努めるだけでなく、水を現地で確保する技術が求められました。こうした中で活躍したのが、草原や砂漠地帯を移動して生活する匈奴や蛮族とよばれる異民族です。彼らは遊牧民として家畜に与える草を求めて移動するだけでなく、井戸がないところから水を得る術を知っていました。つまり湧き水や水脈を掘り当てる技術や知識を生活するうえで学び生きていくことができていたのです。
漢民族は前漢の武帝期に衛将軍(武帝が特別に与えた特権階級)こと衛青が匈奴をコテンパンに倒してから異民族の捕虜を用いて水脈を掘り当てる技術や湧き水を得る方法を学ぼうとしました。

道士やお巫女さんも戦場へ!?

三国志時代は神様や呪いなどのオカルトチックな力が人々に信じられていた時代でもありました。例えば黄巾の乱のときには祭壇が設けられそこで総大将の張角や弟の張宝などが反乱を勝利に導くために儀式を行っていたとする記録があります。
また、劉備(玄徳)は儀式をしばしば取入れました。例えば張飛(益徳)、関羽(雲長)と義兄弟の契りを結んだ桃園の誓い。その際には桃の木の下で豪華な供物を用意し彼らと一生の約束を交わします。また、黄巾の乱で幻兵や呪いに悩まされた折には犬の血液をそれらにかけて退けたという記録さえもあり、儀式によって士気を高めたり呪いを呪いで相殺しようとしていることがわかります。
事実あの曹操(孟徳)でさえも行軍の際にはお巫女さんに先導させ、太鼓を打ち鳴らし、笛を吹いて魔除けのおまじないをしていました。
笛の音色で魔という存在を呼び、太鼓の鼓動で払い、敵地をお巫女さんの力で呪うことを考えていました。
ちなみに日本でも桃太郎に登場する犬、祇園祭りなどの練り歩く系のお祭りで先導する女性は中国の呪いの習慣が取り入れられたよい例だと言われています。

戦争を左右する建築物や大型兵器を作ったのは?

三国志では曹操(孟徳)が開発したと言われている霹靂車や防衛の要となる防柵、砦、櫓など大型兵器や建築物が登場します。これらの多くは自国から運んできたものはではなく、現地調達で得た建築資材を使って戦場で作ることのほうが多かったのです。
兵士としてカウントされる者たちの中には工兵という職種があり、彼らは普段職人や建築家として生計を立てている者ばかりです。
戦争の勝利に直結することはありませんが、戦争のために費やす時間の7割方は攻防に関わる施設や障害物の建築と設置、兵器の開発だと言われているので彼らの働きがなければ戦争で勝つことはまずまず難しいのでしょう。
工兵の中には剣や弓矢、槍などを制作する者たちも含まれるため、彼らはなくてはならない存在でした。

曹操(孟徳)が考案した屯田兵

かつて我が国日本でも仕事にあぶれた者や住む場所に困った者に兵士の身分を与え、北海道の不毛な土地を耕作地へと開墾する屯田兵と呼ばれる者たちがいました。これらの制度を総称して屯田制度といいますが、実はこれを世界で初めて考案したのが悪玉の代表格ともいえる曹操(孟徳)なのでした。曹操(孟徳)は青洲で反逆行為を続ける黄巾党の残党に対して斬新な提案をします。
「君たちに住む場所と土地を与え、3年間は非課税にし兵役も免除する。また、3年間は君たちが食べていけるように便宜を図ろう。その代わり君たちは3年間開墾し続け耕作地を増やし、食糧を備蓄しながら子供たちを将来兵士として働かせるように育てなさい。」
曹操(孟徳)が導入した屯田制は多いに役立ちました。それこそ当初は曹操(孟徳)の蔵にある備蓄が尽きるほどでしたが、たった数年で当初の備蓄を超える税収を獲得し、かつての恩を返そうと屯田した者たちは青州兵として曹操(孟徳)の躍進に尽力しました。その数約4万人。曹操(孟徳)は投資をして当初よりも多くの食料と戦闘員を獲得しました。

兵士たちを癒す娼婦

戦争は武将たちのかっこいい面ばかりだけでなく、略奪や虐殺、強姦、人身売買など暗い面も持ち合わせています。
戦争に勝利すると負けた国に属する人々やものは戦利品として戦勝国のものとなります。日本でもかつて戦国時代には戦勝国が敗戦国の人々をポルトガルやオランダへ売り、兵器や兵士を吸収して富国強兵に努めました。
日本よりも歴史の深い中国ではこのような行為が裏目に出てしまい、国家を揺るがす事態へと発展した実例がいくつも存在します。
曹操(孟徳)、劉備(玄徳)、袁紹(本初)などはそのような事態を恐れ、味方に向けてある策略を用いました。それは長期契約で戦場へ妓楼から娼婦を派遣することです。
娼婦たちは戦で疲れた兵士の心身を癒すとともに宴会に参加して将軍たちをもてなしました。妓楼の主人から見ても国から依頼される大仕事となり、継続的に多くの収入を得られることから依頼を断る理由はありません。
彼女たちは武器や食料を運ぶための馬車に乗せられて戦場と所属する妓楼を行き来したと言われています。

労功行賞の番人

戦争において武将や兵士が頑張れる理由。それは活躍後の労功行賞です。労功行賞では領地が加増されたり、役職を得られたり、王侯に封じられる大事なものです。三国志で戦争に出づっぱりだった武将や兵士はすべて戦争後の褒美を求め主従の誓いを立てた者がほとんどです。
国の主導者はかける温情が行き過ぎることなく、かつ不満に思わせないように労功行賞をする必要がありました。また、罪を犯した者に対してはそれ相応の処罰をする必要も伴います。
中書令やそれに仕える侍従は文官でありながら戦に随行しそれらを記録する必要がありました。曹操(孟徳)もかつては尚書令の侍従として勤務し、戦争における指揮官や武将の活躍を記録する仕事をしていました。
三国志の登場人物が「この戦いのとき、こういうことをした」という記録はすべて戦に随行して労功行賞のための記録をした人々の残したものを三国志を著作した陳寿が書き起こしたものです。彼らが記録を残さなければ趙雲(子龍)が阿斗を救助したことも夏侯惇(元譲)が狙撃されて左目を失ったこともわからずじまいです。
労功行賞の番人たちは後に陳寿が三国志を残すための参考となる記録を残しました。

まとめ

三国志を彩るたくさんの戦いでは、非戦闘員であるたくさんの人々が関わっていました。それらの事実を残す記録も、攻防の要となる建築物、作戦のキーマンとなる人々も非戦闘員です。武将や軍師の活躍ばかりが目立つ三国志ですが、それらの活躍は非戦闘員の支えがあったからこそともいえるでしょう。

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