結婚指輪が習慣づいていなかった三国志の時代は既婚者をどう見分けたのか?

結婚指輪が習慣づいていなかった三国志の時代は既婚者をどう見分けたのか?

左手の薬指に指輪をはめている男女を見ると「この人は既婚者だ」と容易に判断することができます。しかし、結婚指輪が習慣づいていなかった三国志の時代はどのようにして未既婚を見分けていたのでしょうか?


結婚指輪がアジア圏に入ってきたのは19世紀から

女性はみな恋人からプロポーズとともに結婚指輪を受け取ることを誰しもが夢見ていることと思います。今を生きる私たちは結婚というワードを聞くと結婚指輪を連想しますが、三国志の時代である2世紀ごろは指輪は権威を示す象徴であり、儀式の小道具や身分の高さを示す装飾品としての役割を担っていました。
世界中に視野を広げても、2世紀ごろに結婚の約束として指輪を贈る習慣はどこにもありませんでした。
それでは、結婚指輪を男性が女性に贈るようになったのはいつ頃かと言うと18世紀初頭にヨーロッパ諸国で貴族の男性が女性に指輪を贈って求婚したのが始まりです。それ以降、そのパフォーマンスをすることが貴族たちの間で流行し、庶民たちもそれを真似たことで全世界へ蔓延しました。
中国や日本に結婚指輪を贈る習慣が根付いたのは明治維新によって西洋化が進められてからのことです。

中国では夫婦の印は地域ごとに異なっていた

さて話を三国志時代の2~3世紀の中国へ戻してみます。殷の紂王を滅ぼし、周の武帝が建国した周の頃にはすでに周公旦が冠婚葬祭に関する作法や儀式の取り決めを明文化しており、その中には結婚式も含まれていて、礼記に記されています。
礼記には各々の父母に感謝を述べ、今後の抱負を天地神明と先祖に宣誓した後お互いの髪の毛を切ってより合わせたものが夫婦の証となりました。
また、東西南北に180の都市国家に分かれた春秋戦国時代がありました。そのころは各国で独自の文化が栄え、夫婦の証や結婚式のやり方についても独自性が生まれました。
例えば斉国。斉国の国土は小さくても戦はとても強い国でした。斉国がなぜ小さい国でも戦が強かったのかと言うと、化学兵器の開発と戦に投入する戦闘員の確保を重要視していたからです。そのため、斉国では女性が15歳、男性が20歳になると成人式と一緒に集団結婚式を行わせました。さらに斉国の面白いのはここからです。結婚相手を選ぶ権利は女性に与えられていました。女性たちは結婚式に備えて母親から実家のシンボルとなる文様の刺繍を覚え、白地の帯にその刺繍を施して結婚式の当日に意中の男性からその帯を受け取ってもらうことができると結婚が成立します。斉国では刺繍の施された白地の帯を持っている者が既婚者と認識されました。
漢の皇帝である高祖劉邦は呂皇后と結婚する前にすでに居酒屋を営む未亡人の女性と恋仲にあり、子供までいました。しかし、当時の世論を憚って当初その女性とは結婚せず呂皇后と結婚するのですが項羽よりも先に漢中に入り漢中王を拝命するとその女性を呼び寄せて側室に迎えます。そしてその時に夫婦の証として手渡したのが5色の糸で編んだ組紐でした。

髪型でも見分けられた

漢代の美人の定義はとにかく色白でかつ黒くて艶のある長い髪を持っている女性が美人だとされていました。また、儒教の思想から髪の毛は親から譲り受けた大切なもので安易に切ることは許されないことであり、なおかつ整髪することは一種のステータスでした。
髪を下ろしてよいのは未婚の女性のみ。長くてサラサラしていることを強調することで男性にアピールをしていたようです。また、既婚者の女性は家事や子育てをしなければならず、貞操を守るためにも長い髪を下ろしているのは周りからのウケが悪く、みな編み込んだり結い上げることで切らずとも動きやすい髪型にしていました。
また、簪などの髪飾りについても未婚者と既婚者でつけてよいものと悪いものがあり、女性たちは結婚するとそれまでつけていた髪飾りを一新して質素なものへと変えたそうです。

服装でも見分けられる

日本でも振袖を着てよいのは未婚の女性だけという習わしがあります。中国でも同様で袖口の広い着物や袖の長い着物は未婚女性が切着るものであり、既婚者の女性は身体にきちんと合った動きやすい着物を着ました。
また、皇后や豪族の妻など身分の高い男性に嫁いだ女性は着用してもよい生地や丈の長さなどがすべて決められていて、皇后の場合は威厳を示すためにも8Kg弱の衣服を着用して生活しました。また、漢王室では皇后へ印綬とともに受け継がれる鳳凰の髪飾りがあり、それは純金で作られていて3Kgほどの重さがあったそうです。

外出の頻度でも見分けられる

儒教の教えが基本理念だった漢代の既婚女性たちは服装や髪型ばかりではなく、行動までもが制限されていました。その一例が外出頻度です。
既婚女性たちは貞操を守り、夫の留守を守るため買い物するときでさえ短時間で済まさなければならず、夫の同伴なく外食や遊びにうつつを抜かすなどもってのほかです。それは高貴な身分になればなるほど厳しく制限されて、夕飯のおかずの買い出しさえも許されないほどです。
豪族の妻や娘は1人で外出することは許されず、生涯のほとんどを実家と嫁ぎ先の家の中で過ごしました。中国の忌まわしい習慣である纏足という文化は一説には女性を逃がさないために始められたことだとも言われています。
そのため、当時の既婚者の代わりとして買い物や外出しないとできない用事を済ませたのは屋敷の使用人として働く、下男下女や家老に該当する人々でした。
下男下女などの使用人にとっては奥方からのお使いがその家を脱出できるチャンスであり、人選を誤ると夫の威厳を損ないかねない事態に陥ることもありました。
お使いに行かせることのできる者は信用のおける者でなければならず、買い物ごときの小さなことでも細心の注意を払うとは、とても面倒くさかったことでしょう。

周りの人たちから婚姻状況を知ることもできていた

「あそこのおねえさん綺麗だねぇ」なんて同性間でしかしないと思います。当時は意外とオープンな人々が多く、男性たちは市場で見かけた女性や家事をしている女性を見て気に行った場合は、道行く人に「あの人は誰かの奥さんなのかい?」と質問することがあったそうです。
そういうときは近所の人が「あそこの娘さんはだれだれの娘でもう結婚相手が決まっているよ」、「だれだれの奥さんだよ」などとさも当たり前のように受け答えをしていたようで、それは日常的に行われていました。

まとめ

結婚指輪などない三国志の時代。既婚者と未婚者を見極める方法は、髪型や服装、所有物、外出頻度などがあります。また、当時はごく当たり前のように男性が気に入った女性について近所の人に誰の娘か、結婚相手はいるのかなどを聞くことは一般的なことで、聞かれた相手も受け答えを何食わぬ顔ですることが日常的でした。

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