三国志には奸臣が多く登場!有名な奸臣について紹介

三国志には奸臣が多く登場!有名な奸臣について紹介

三国志には、忠義を尽くすカッコイイ武将が多いです。その反面、奸臣と呼ばれる人物も多く登場します。奸臣によって国難に陥ることもあったのです。そこで今回は、三国志に登場する有名な奸臣について紹介していきたいと思います。


奸臣とはどんな人物?

奸臣とはどんな人物?

奸臣とはどんな人物?

奸臣とは、能力がないにもかかわらず高い地位に付いて権力を持ち、私腹を肥やしたり、国政をめちゃくちゃにしたりする人物のことです。奸臣の多くが、君主の寵愛を受けており、周りの人も奸臣に対して気を遣うことが多いです。ちなみに、同じような意味の言葉として佞臣があります。奸臣と佞臣はほとんど同じ意味となっています。

奸臣と言えば黄皓!

奸臣と言えば黄皓!

奸臣と言えば黄皓!

黄皓ってどんな人物?

黄皓ってどんな人物?

黄皓ってどんな人物?

三国志時代の奸臣と言えば、黄皓の名前を挙げる人が多くいます。黄皓とは、蜀漢の劉禅に仕えた宦官です。蜀漢と言えば諸葛亮(孔明)が有名ですが、その諸葛亮(孔明)が亡くなってから劉禅に寵愛されたとされています。董允が警戒しており、劉禅が黄皓を重用しようとすると董允が諫めています。そのため、董允が存命中は黄門丞と呼ばれる低い役職だったのですが、董允が無くなると陳祗と手を組み昇進し、陳祗死後は蜀漢の政治の実権を握ったのです。黄皓は姜維を追放しようとするなど、蜀漢を混乱させていき、蜀漢滅亡の原因と言われているのです。

奸臣と言われる理由!

奸臣と言われる理由!

奸臣と言われる理由!

黄皓が奸臣と言われる理由は主に2つあります。1つ目が、姜維からの援軍要請を握りつぶしたからです。姜維は魏が攻めてくることを予見し、援軍要請を出しています。しかし、黄皓は巫女の信託を信じて、敵は来ないと思っていました。そのため、援軍要請を採り上げるべきではないと劉禅に意見しています。その結果、蜀漢は迎撃準部が整わないまま魏と戦わざる負えなくなったのです。

2つ目が、蜀漢が滅亡したときに、自分だけは生き延びているからです。蜀漢が滅亡すると黄皓は、魏の鄧艾の側近に賄賂を贈ります。鄧艾は蜀漢遠征を行ない、劉禅を降伏させた人物です。鄧艾は黄皓の噂を聞いており、捕縛して殺害しようとしたのですが、側近が賄賂を貰っていたこともあり、黄皓は生き延びることができたのです。蜀漢滅亡の原因を作っておきながら、自分だけは助かろうとする精神から、奸臣と言われているのです。

呉の奸臣は呂壱が有名!

呉の奸臣は呂壱が有名!

呉の奸臣は呂壱が有名!

呂壱はどんな人物?

呂壱はどんな人物?

呂壱はどんな人物?

呉の奸臣として有名なのが呂壱です。呂壱は呉の孫権に仕えた人物であり、文書監査官に任命されたてから奸臣としての本性が現われます。法を振りかざして些細な罪も糾弾し、自分の実績を作っていきました。孫権もそんな呂壱を可愛がっており、呂壱を信頼していたのです。呂壱は讒訴することも多く、呉の重臣をも陥れようとしました。それでも、孫権が可愛がっていることによって、呂壱は周りから恐れられる存在となります。最終的には、重臣の上奏によって呂壱の悪事が発覚し、処罰されました。

奸臣と言われる理由!

奸臣と言われる理由!

奸臣と言われる理由!

呂壱が奸臣と言われる理由は、多くの讒訴をしたからです。讒訴とは、人を陥れようと事実ではないことを訴えることです。孫権は呂壱を可愛がっていたこともあり、この讒訴が認められてしまいます。これによって、周りが呂壱を恐れることになり、呂壱は各種の専売品の利益を独占しているのです。専売品の利益を独占することで、呂壱は私腹を肥やしたのです。

また、呉という国をバラバラにしたのも奸臣と言われる理由となります。これは孫権も悪いのですが、呂壱の讒訴によって、多くの重臣が罪となっています。最終的には呂壱の悪事がバレることで許されるのですが、これによって孫権との信頼関係が失われてしまったのです。こられの理由から、呂壱は奸臣と言われているのです。

岑昏も呉の奸臣として知られている!

岑昏も呉の奸臣として知られている!

岑昏も呉の奸臣として知られている!

岑昏はどんな人物?

岑昏はどんな人物?

岑昏はどんな人物?

呉の晩年で奸臣として知られているのが岑昏です。岑昏は、呉の第4代皇帝である孫皓に仕えた人物です。孫皓は暴君として有名であり、呉を滅亡させた人物とされています。そんな孫皓から寵愛を受けたのが岑昏なのです。岑昏は孫皓から寵愛を受けていることから、孫皓と一緒になって残虐な行為を行ったとされています。最終的には、呉の滅亡直前に重臣たちの嘆願によって処刑されています。

奸臣と言われる理由!

奸臣と言われる理由!

奸臣と言われる理由!

岑昏が奸臣と言われる理由は、孫皓と一緒になって残虐な行為を行っていたからです。とは言え、孫皓が暴君だったこともあり、岑昏は小悪党なイメージが強いと思います。また、意外かもしれませんが、岑昏は孫皓が理不尽に怒って処刑しようとした張尚の除名嘆願を行っており、評価される行動もとっているのです。そのため、他の奸臣に比べるとまだマシだったのではないでしょうか。

魏の奸臣と言えば秦朗!

魏の奸臣と言えば秦朗!

魏の奸臣と言えば秦朗!

秦朗はどんな人物?

秦朗はどんな人物?

秦朗はどんな人物?

魏の奸臣として有名なのが秦朗です。秦朗の養父は曹操であり、曹操から寵愛を受けた人物です。秦朗が遊び惚けていても、曹操は咎めることはなかったと言われています。秦朗は魏の2代皇帝である曹叡に仕えるのですが、曹叡からも可愛がられています。秦朗はたいしたことはできなかったのだが、曹叡からは高い信頼を得ていたのです。しかし、曹叡が病気に臥せているときに劉放と孫資に讒訴され、秦朗は罷免されてしまいました。

奸臣と言われる理由!

奸臣と言われる理由!

奸臣と言われる理由!

秦朗が奸臣と言われる理由は、曹叡との関係性から私腹を肥やしたからです。秦朗は無能であることは周知の事実でした。しかし、曹叡から信頼されており、曹叡から大豪邸を与えられるほどでした。それほど曹叡と親しかったことから、秦朗に賄賂を贈る人物が多くおり、秦朗は私腹を肥やしたのです。とは言え、秦朗が私腹を肥やすことができたのは、勝手に秦朗に賄賂を贈る人物がいたからです。そのため秦朗は、奸臣とは言えそれほど悪党のイメージありません。ただ、秦朗が無能だった点が奸臣としての評価を受けてしまう原因かもしれません。

実は奸臣は…

実は奸臣は…

実は奸臣は…

ここまで三国志の奸臣について紹介してきました。奸臣も三国志を盛り上げるためには重要な人物たちです。聖人だけでは、三国志の面白味が半減してしまうことでしょう。それだけに、三国志にとって関心は重要な役割を持っているのです。また、三国志に登場する奸臣は、必要以上に悪く言われている傾向があります。これは、三国志に登場する英雄などを際立たせるためとも言われているのです。今回奸臣として紹介した人物も、実際にはもっと違う評価をされていた可能性があります。そんなことを考えながら、三国志を楽しんでみてください。





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