三国志の登場人物には、主君に忠義を尽くす武将がいました。このような人物は歴史書の「三国志」(以後史書)や小説の「三国志演義」(以後演義)のどちらにも忠義に厚いことが描かれており、多くの人の共感を呼んでいます。
ドラマや映画、小説、ゲームなどでは主君や領地を守るために命をかけて尽くす武将の姿がドラマティックに表現されており、時には涙を誘う演出もなされています。ここでは、三国志の中でも代表的な忠義の武将をみていきましょう。
主君曹操のために身を犠牲にした魏の忠臣【典韋】
■ 主君曹操のために身を犠牲にした魏の忠臣【典韋】
主君曹操のために身を犠牲にした魏の忠臣【典韋】
魏の名臣といえば典韋(テンイ 出生不明―197年)でしょう。典韋は恵まれた体格で豪傑といわれており、張バク(チョウバク 出生不明―195年)の兵士となっており、誰も持ち上げることのできなかったといわれる本陣の旗を片手で持ち上げたといわれています。また演義では虎を追い回しているなど、史書・小説ともに怪力のエピソードが描かれています。
曹操の護衛として身を投げ出す典韋
■ 曹操の護衛として身を投げ出す典韋
曹操の護衛として身を投げ出す典韋
典韋は後に曹操(ソウソウ 155年―220年)の配下として活躍していきます。いつしか曹操の側に立ち、今でいうSPやボディガードのような役割を担いました。197年に曹操が張繍(チョウシュウ 出生不明―207年)を攻めるために軍を動かすと、典韋も従軍します。すると、張繍は攻め込まれる前に自軍を率いて曹操に降服してきました。
しかし、この後張繍が裏切って奇襲をかけてきて、典韋は曹操を先に逃がし、自分の数名の部下と共に張繍軍に立ち向かいました。典韋は無数の傷を負いながらも曹操が逃げる時間を稼ぎ、敵をなぎ倒していきます。部下も息絶えると敵兵は典韋に集中しますが、典韋の鬼の形相によって敵兵たちは身震いして近づけなかったといいます。典韋は遂には息絶えますが、この命をかけて時間を稼いだことにより、曹操は命からがら逃げ延びることができました。
演義では矢を全身で受け止める壮絶な最期
■ 演義では矢を全身で受け止める壮絶な最期
演義では矢を全身で受け止める壮絶な最期
また、演義だと典韋は武器を奪われた状態にもかかわらず、素手で応戦し、相手の武器を奪って戦いますが、敵弓兵の一斉射撃によって全身を矢で貫かれ、仁王立ちのまま絶命しています。
どちらにしてももの凄い死にざまですが、この戦いでは曹操の長男も死亡しています。しかし、曹操は自分の子供以上に典韋の死を嘆き悲しみ、涙が止まらなかったといいます。
主君への忠誠を誓い、敵への恩義を返した名臣【関羽】
■ 主君への忠誠を誓い、敵への恩義を返した名臣【関羽】
主君への忠誠を誓い、敵への恩義を返した名臣【関羽】
蜀の忠義の臣では関羽(カンウ 生年不明―220年)が有名でしょう。関羽は三国志の登場人物の中で劉備(リュウビ 161年―223年)や曹操といった君主以外では諸葛亮(181年―234年)と並んで人気のある武将です。
劉備に仕えながら曹操の捕虜となる
■ 劉備に仕えながら曹操の捕虜となる
劉備に仕えながら曹操の捕虜となる
関羽は張飛(チョウヒ 生年不明―221年)とともに劉備に仕え、人並み外れた武勇で他国からも恐れられていました。200年に劉備が曹操に敗れると、劉備は曹操と並ぶ実力者の袁紹(エンショウ 154年―202年)の下へ逃れます。関羽は劉備の夫人らを護衛していたこともあり、逃げ遅れて曹操の捕虜となってしまいます。
関羽を部下に欲しい曹操は、関羽を牢屋に入れずに将軍職につけて軍に引き入れます。関羽は劉備の安否が不明な点もあり、すぐに立ち去りたいと思いつつも、劉備夫人ともども手厚く歓迎した曹操に対して恩義を感じていました。
曹操への恩を返すために曹操軍に加わる
■ 曹操への恩を返すために曹操軍に加わる
曹操への恩を返すために曹操軍に加わる
しばらくして袁紹と曹操が戦うことになり、関羽は参戦して袁紹の将軍顔良(ガンリョウ 生年不明―200年)を討ち取りました。主力を失った袁紹軍は次第に曹操軍に押されてしまい、遂には敗れてしまいます。
関羽をますます気に入った曹操は、さらに豪華な贈り物をするなどして関羽を引き留めようとします。しかし、関羽は曹操からもらった贈り物にはすべて手につけず封をしていました。顔良を討ったことで恩義を返したこともあり、劉備の所在が分かったことで関羽は手紙を添えて曹操の元を離れます。
権力に媚びずに主君のために駆けつける関羽
■ 権力に媚びずに主君のために駆けつける関羽
権力に媚びずに主君のために駆けつける関羽
主君の顔に泥を塗られた格好になった曹操の配下たちは、こぞって関羽を討つために追いかけようとしますが、関羽の忠義に感嘆した曹操は部下に追うことを禁じます。
曹操はすでに名君として存在し、袁紹を倒したことで中原の覇者として天下に名を轟かせていました。普通に考えれば曹操のような実力者に気に入られ、重く採用してくれるのは間違いない中で、自分の領地を持たない主君のためにどこまでも付いていこうとはしないでしょう。
演義でも曹操への恩義を深く感じる一面を見せる関羽
■ 演義でも曹操への恩義を深く感じる一面を見せる関羽
演義でも曹操への恩義を深く感じる一面を見せる関羽
演義では多少の脚色もあり、関羽の千里行として描かれています。関羽は曹操の元を離れる際、曹操の屋敷を訪れますが、避客牌(屋敷の主がどんな訪問客も断ること)の札がかかげられており、礼儀を重んじる関羽はそのまま帰りました。しかし、訪れるごとに札があるのをみて、遂に関羽は曹操の屋敷の前にすべての贈り物を置き、感謝の手紙を添えてひざまずき、その場を去りました。
曹操はその礼儀と忠義を重んじる姿勢に深く反省し、気持ち良く会ってあげられなかったことを詫びながら配下に関羽を追うなと指示を出します。
関羽の礼儀を重んじる姿勢は後に曹操の命を助けることに
■ 関羽の礼儀を重んじる姿勢は後に曹操の命を助けることに
関羽の礼儀を重んじる姿勢は後に曹操の命を助けることに
行き違いで曹操の指示よりも先に5つの関所を突破するのに6人の将軍を倒してしまった関羽ですが、その指示も聞くところとなり、曹操には深い感謝の念をずっと抱いていました。
後に赤壁の戦いでは敵の敗将となった曹操と対面し、関羽は以前の恩義を忘れられず、その首を取らずに見逃してしまいます。
史書と演義の両方でも忠義と礼儀を重んじる関羽は、三国志の主人公の一人としても十分に存在感を放っています。
赤壁の戦いで苦肉の策の語源にもなった【黄蓋】
■ 赤壁の戦いで苦肉の策の語源にもなった【黄蓋】
赤壁の戦いで苦肉の策の語源にもなった【黄蓋】
小説・三国志演義の中で三国志の一大クライマックスとなるのが赤壁の戦い(208年)です。赤壁の戦いは中原を制覇した曹操が10万もの兵力で、中国統一を図るために勢力を伸ばそうとして南下しており、これを迎え撃つのが呉の孫権(ソンケン 182年―252年)と劉備の連合軍です。
その兵力差は3倍以上ともいわれており(一説には5倍以上)、とても歯が立ちそうにない戦いになるはずでした。
演義では蜀の軍師諸葛亮と呉の提督周瑜(シュウユ 175年-210年)の超人的な頭脳戦が繰り広げられていますが、ここで注目したいのが、呉の黄蓋(コウガイ 生年不明―215年)です。
偽りの投降を演じるために鞭を打たれる黄蓋
■ 偽りの投降を演じるために鞭を打たれる黄蓋
偽りの投降を演じるために鞭を打たれる黄蓋
演義からみてみますと、曹操は事前に孫権軍にスパイを送り込んでおり、それを見抜いた周瑜が黄蓋の投降をもっとリアルにするために一計を練りました。
それは司令官である周瑜が一向に曹操に対して対抗策を出せないことから、部下の黄蓋が暴言を吐いて罵倒し、それに怒った周瑜が多くの兵が見守る中で黄蓋を鞭打ちの刑に処すことです。そのリアルさはスパイを通じて曹操にも知れ渡り、黄蓋が投降を申し出てきても疑いなく受け入れられました。
自ら傷つける起死回生の策が【苦肉の策】が大成功
■ 自ら傷つける起死回生の策が【苦肉の策】が大成功
自ら傷つける起死回生の策が【苦肉の策】が大成功
この黄蓋の自らを傷つけて敵を騙して信用させる行為は、起死回生の策を完成させたことで、「苦肉の策」という言葉の語源にもなりました。自らを犠牲にしても自国を守ろうとした黄蓋は、まさに忠義の士といえるでしょう。
ちなみに黄蓋は史書でも赤壁の戦いに登場し、偽りの投降で曹操軍を翻弄し、火計を用いて大勝利に収める役割を担っています。赤壁の戦いのにおける勝利の立役者といっても過言ではありません。
まとめ
■ まとめ
まとめ
このように忠義の武将たちは、それぞれ自らの思いのために身を挺して戦いました。典韋のように残念ながら再会を果たすことなく死んでしまったケースもありますが、その思いは主君や仲間たちによって受け継がれていき、より強い絆で結束されていきます。
忠義という面で代表されるこの3人は、中身が男前でカッコいい武将といえるのではないでしょうか。