賈南風とは
■ 賈南風とは
賈南風とは
賈南風は三国を統一した西晋の武帝である司馬炎(安世)の息子、司馬衷の后です。元々司馬炎(安世)は司馬衷の后として衛瓘の娘を迎えるつもりでした。しかし、賈充の娘である賈南風が賈充の功績を盾に司馬衷の后になることになったのです。賈充派の勢いに押されることとなってしまったのですが、皮肉なことに衛瓘の娘は賢く色白の美人であり、賈南風は色黒の醜女というのだからたまったものではありません。
じゃあ性格がいいのかというとその真逆で残虐な性格で司馬衷も恐れたというほどです。
言ってみればルックスもダメ、性格もダメ、だけど親のコネで后になりえたという最悪の女です。
さらに最終的に男の子を設けなかったというおまけつき。司馬炎(安世)が賈南風を見限って幽閉し、離婚させようとしたにもかかわらずいろいろな後ろ盾により結局おとがめなしという最悪の結果になってしまいました。
せっかく三国を統一した西晋ですがすぐに衰退してしまった一番の原因はこの賈南風がいたからと言っても過言ではないでしょう。
もし司馬炎(安世)が皇帝の座に就いた後に女に走ることなく(宮女を5千人抱えていたという説があるのでよほどの好きものだったことでしょう)治世に走っていればこんなことはなかったのにという感じです。
賈南風の残虐性
■ 賈南風の残虐性
賈南風の残虐性
さて賈南風は残虐、残虐といわれていたのですが、実際どのようなことをしたのかまとめてみましょう。彼女はなんと恋敵を殺しているのです。しかも身重の側室を対峙事殺したともいわれています。嫉妬心が強く、数人を殺したと言われているので、一人二人ではないはずです。
これに対し司馬炎(安世)はブチ切れて賈南風を金墉城に幽閉するのですが、皇后である楊悼后が賈充の功績を説き賈南風を助けるように説得しました。しかし賈南風は訓戒を垂れる楊悼后を疎ましく思うようになりました。司馬炎が亡くなった後、庶人となった彼女を(賈南風が中心となりクーデターを起こし楊悼后を庶人とした)餓死させてしまったのです。
女の嫉妬心を最上級に持っていた賈南風はまさにやりたい放題で、目障りだった女を次々と殺していったのでした。
晋を滅ぼした女賈南風
■ 晋を滅ぼした女賈南風
晋を滅ぼした女賈南風
男たちが血を流し、必死に領土を拡大し、最終的に三国を統一したのですが、結局バカな女が一人いると国が亡ぶことが分かります。それが賈南風です。
司馬衷は障害児だと言われていたのですが、それをいいことに傀儡政治を成し遂げたのでしょう。
優秀な人材でも自分に意見をしたり、気に入らないものは殺害していきました。
そんな国が長く続くわけもなく、せっかく三国志を終わらせた晋はものの数十年で終わりを迎え、八王の乱に突入するのです。
言ってみればまた振出しに戻ってしまったわけです。
ではどうして司馬炎(安世)は司馬衷を後継者にしたのでしょうか。それにはもちろん賈南風が一役買っている訳です。司馬炎(安世)は司馬衷が後継者にふさわしいかどうかテストをすることにしました。しかし司馬衷がこのテストに合格するはずもありません。それを分かり切った賈南風は司馬衷にカンニングをさせたのです。司馬炎は司馬衷の出来に満足し後継者に指名したと言われています。
しかし私は司馬炎が満足したのではなく、「もうどうでもいいや」と思っていたのではないかと思います。仮にも三国を統一した男です。そんなのが見破れないとは思いません。しかし周りの者が賈南風を擁護するのに辟易として国を作り上げるのにいささか疲れたのではないかと思います。それより女と寝る方が楽しいと思ったのでしょう。
じゃなければ最終的な覇者が小娘一人に翻弄されたということになり、それまで血を流した劉備(玄徳)、諸葛(孔明)や曹操(猛徳)と言った過去の英傑たちに申し訳が立ちません。
賈南風の最後
■ 賈南風の最後
賈南風の最後
もちろんこんなどうしようもない賈南風が最後まで生きながらえる訳がありません。宮廷は反乱に反乱に反乱が重なりぐちゃぐちゃになりましたが、最終的に賈南風は司馬冏に捕らえられ賈氏一族は皆殺しにされます。
そして賈南風も毒酒を飲まさせられ自殺を強いられ、その一生を終えることとなりました。
ここでお気づきの方も多いと思いますが、この賈南風を捉えたのは「司馬」です。つまり司馬衷の一族ということになります。また一族の権力争いが始まってしまう訳です。
八王の乱に至った理由
■ 八王の乱に至った理由
八王の乱に至った理由
これは個人的意見ですが、何がここまで狂わせたかと言ったらやはり司馬炎(安世)が三国を統一した後ではないかと思います。それまで、多くの宮女を抱えていて女好きとしていた司馬炎(安世)でしたが、統一後はかなりおかしなことになっています。
それはもしかしたら孫晧(元宗)の囲っていた宮女がキーになっているのではないかと思います。というのも、孫晧(元宗)は残虐性の塊と言ってもいいほどの男で宮女の目玉をくりぬいたり、平気で殺していたとされています。そんな孫晧(元宗)の宮女が司馬炎(安世)の宮女となったら心から「救われた!」と思うのではないでしょうか。そして司馬炎(安世)を本気で好きになる。司馬炎(安世)も宮女としてではなく一、女として本気になる。
さらに自分が「賈南風を殺せ!」と言っても周りは彼女の父の功績をたたえるなどして思いとどまるように説得する。そうするうちに「後世はどうにでもなれ」となってしまったのではないでしょうか。
そして本当にどうでにでもなってしまった結果が八王の乱ということになったのだと思います。
賈南風から見られる当時の中国人の気質
■ 賈南風から見られる当時の中国人の気質
賈南風から見られる当時の中国人の気質
董卓(仲穎)を見ても曹操(猛徳)を見ても、この賈南風を見ても思うことが一つあります。それは多少の犯行を受けたとしても我を通して声高に「私の言う通りにしろ!」という独裁者的な意見が結構まかり通っているということです。ここに倫理や道徳は存在せず、凶暴性の強いものの意見が採用されてしまうという流れが強いような気がします。
もちろん最終的には討たれてしまうのですが、その「最終的」を迎えるまでに何十年もかかります。
正当なことを言うよりも力を使いまくってその意見を殺すということがこの時代を制するカギになっているのが伺えるのではないでしょうか!
まとめ
■ まとめ
まとめ
以上、賈南風と晋について紹介しましたがいかがでしたか?恐らく三国志が尻つぼみに脚光を浴びなくなったのは、後半は疲弊しまくって、国と国の戦争どころではなくなった反面、内政のごたごたがメインだったからではないでしょうか。
つまりそこには「国が一丸となって!」という美学は存在しません。
そしてそうなると男同様に力を持つことが出来るのが宮中にいる女、特に皇后や皇太后なのです。そしてその権力をいかんなく発揮したのが賈南風ということを知っていただけたら幸いです!