登竜門の故事を生んだ軍師 郭泰(林宗)と李膺(元礼)

登竜門の故事を生んだ軍師 郭泰(林宗)と李膺(元礼)

三国志、もとい漢代には故事成語がたくさんあります。偉大な仕事や役職につくために必ず通過するべき学校や組織、プロセスのことを指す「登竜門」もそのひとつで、郭泰(林宗)という軍師と李膺(元礼)という名士が生んだとされています。


誰もが使う「登竜門」はこの男たちが生んだ

偉大な仕事を成し遂げるためのプロセスや職業、役職に就くために通過するべき学校や組織のことを「登竜門」と言います。「登竜門」という故事成語はさまざまなメディアでごく一般的に使われている言葉であり、漢字検定でも出題されるなど日本人なら誰もが知っていると言っても過言ではありません。
三国志、もとい漢代ではさまざまな故事成語が誕生しました。「登竜門」もそのひとつです。登竜門を生んだ男は三国志では清流派名士の代表格である李膺(元礼)と郭泰(林宗)という軍師が語源となっています。

登竜門の故事を生んだ郭泰(林宗)と李膺(元礼)

漢の都、洛陽の南に位置する竜門は、黄河にたたずむ大きな高低差の滝です。河を遡ってきた鯉も急に高さを増す竜門をなかなか昇ることができません。鯉にとっては産卵するための帰郷で越えなければならない試練です。鯉の中には竜門を登りきることができず、力尽きて絶命することもあります。そのため、この竜門を登ることができた鯉は滝を登りきると竜へ変じると言われていました。ちなみに我が国の伝統的な文化である鯉のぼりは竜門を登る鯉のように我が子が立身出世することを願った庶民がはじめたものだと言われています。
そして「登竜門」の竜門に例えられたのが清流派名士の李膺(元礼)、竜門を登って竜となる鯉に例えられたのが郭泰(林宗)という軍師です。

後漢期の官吏登用制度

李膺(元礼)がなぜ仰々しくも「竜門」になぞらえられているのか、それを説明するためにはまず後漢の官吏登用制度を理解していただく必要があります。
まず、後漢朝廷に仕える文官や武官のことを総じて官吏ということにします。後漢朝廷に仕える官吏は先祖代々世襲してきた名門や名族と言われる豪族出身の者と郷挙里選と言って県令や州牧から学問や武芸を買われて朝廷に推薦される制度によって登用される者、孝廉という科挙制度の前身となる制度で登用される者がいました。三国志に登場する人物の名を借りるならば豪族出身の官吏は袁紹(本初)、郷挙里選にて武芸の腕を買われて現在の警察署長の身分から成り上がった孫堅(文台)、孝廉によって採用され尚書令の侍従からその身を立てた曹操(孟徳)がよい例でしょう。
漢は前漢と後漢に二分されていてその間に新という王朝が一時期政権を執っていました。三国志の舞台である後漢は西暦25年に光武帝劉秀が漢を再興するため新の皇帝だった王莽を倒し建国した王朝です。前漢が新によって滅亡に追い込まれたのは武帝の頃から台頭しはじめた豪族に対して適切な対応ができなかったためでした。そのことをよく知っていた光武帝劉秀は豪族を弾圧することは危険であり、むしろ重用すべきであると考えました。光武帝劉秀の判断は正しいのか間違っていたのか定かではありませんが、その甲斐あって豪族は後漢を通じてさらに力をつけました。
後漢の皇帝は豪族に儒教を学ばせ官僚とし、仁徳をもって国民や領地を支配することを任せました。郷挙里選や孝廉という制度は理不尽な支配が行われないように仁徳を重んじる儒教を基準としてキャリア官僚を育成することを目的とした制度でした。
民草が貧しく食うに事欠く状況であるのに私腹を肥やそうとさらに税を重くする豪族は王朝により弾圧されました。逆に貧困にあえぐ民に代わり税を負担する豪族は仁徳のある者として評価され高いポストにつきました。後漢の王朝は豪族の仁愛、孝行心、親切心が基盤となって成り立ち安定した支配を実現していました。

外戚・宦官への抵抗が名士を生む

宦官とは、後宮に仕えるために虚勢された男性の官吏のことを指しています。本来、宦官とは罪人や身分の低い者が就いた職業であり、身分は高くありません。しかし、宦官は皇帝の近くで働き、なおかつ幼少期から仕えているだけあって皇帝から宦官への信用はかなり厚いものでした。想像してみてください。親よりも長い時を過ごし、あれもこれも教えてもらいながら遊び相手や世話してくれた者を身分が低いからと言って足蹴にするでしょうか?
当然後漢の皇帝は自分の面倒を見てくれていつも側にいる宦官を重用しました。それこそ人間関係や家庭のこと、仕事のことなどありとあらゆることを皇帝は宦官に相談したので、宦官は政治に関わる機会が多くありました。さらに後漢王朝は第4代皇帝から幼児や未成年が即位しました。年端もいかない者が皇帝として仕事を果たせるはずがありません。
そんな中で政治を牛耳ったのが皇帝の母方の親戚(外戚)や宦官でした。外戚と宦官はさまざまな場面で私腹を肥やしました。本来儒教を基準として選抜されるはずの郷挙里選や武芸に優れた者が就くべき武将に自分の息のかかった者を推薦するように地域の豪族へ圧力をかけたり、賄賂を贈らなければ無差別に登用を見送ることもありました。
先ほども述べたとおり、後漢王朝は当初仁徳のある豪族に支配を任せて安定した政治が実現できていました。しかし、外戚と宦官のせいでその均衡は壊され不安定な政治が続きます。
儒教を修めた豪族出身の官僚たちは外戚や宦官を厳しく批判しました。このように外戚や宦官を批判し、後漢王朝を本来あるべき方向へ修正しようという意志を持ったり、行動をした官僚のことを清流派官僚、または名士と言います。これらの代表格と言われるのが李膺(元礼)です。名士が登場すると外戚や宦官は黙っていられません。宦官は皇帝の威厳を笠に着て名士たちを弾圧しました。これが党錮の禁であり、そのきっかけは李膺(元礼)が宦官を死刑に処したことから始まりました。

名士の中心人物となった李膺(元礼)

李膺(元礼)という人物は堅物ながら誰もが尊敬の念を抱く名士でした。曲がったことが大嫌いで「たとえ神様仏様がその者の罪を許しても自分は決して許さない」という性格の官僚です。正義の2文字を掲げるその気性故に宦官からは疎んじられていましたが、後漢王朝に仕える名士たちからは大変評判のよい者でした。李膺(元礼)は公正に人々を裁く才能を買われて朝廷の官吏を取り締まる司隷校尉に抜擢されました。李膺(元礼)が司隷校尉に就任して10日後、事件が起きます。宦官のトップたる十常侍のひとり張譲の弟は日頃から私服を肥やし、仕事はまともにせず悪さばかりしていました。李膺(元礼)は張譲の弟に邸宅に押し入り逮捕しました。張譲は弟を守るために直々に皇帝へ訴え、むしろ李膺(元礼)を罪人として告訴しました。
李膺(元礼)は動じることなく張譲の弟の罪状や調査で得た罪の実録をありありと語り、「私は任務を遂行しようとしているのです。私は官吏を取り締まる任を賜りました。この罪を「許せ」と陛下がおっしゃられても臣(自分)は陛下の評判を落とさんがために裁かねばなりません。陛下がもし私を殺せとお命じになるのなら私がこの者を処分した後に殺してくだされ。」と訴えました。皇帝は李膺(元礼)の覚悟に心を動かし「張譲、司隷(李膺)に間違いはない。これはそちの弟の罪じゃ。罪を犯した者はたとえ誰であろうと裁かなくてはならない。いい加減諦めなさい」と諭し、張譲の訴えを取り下げ、李膺(元礼)を許しました。そして、張譲の弟を死刑とすることに許可をしたのです。
これを機に張譲は復讐の鬼となって党錮の禁を行いました。

李膺(元礼)から格別の待遇を受けた郭泰(林宗)

李膺(元礼)が竜門と仰がれたのは後漢を揺るがす宦官に立ち向かった正義心から周りに慕われたためでした。李膺(元礼)は名士として名を轟かせ李膺(元礼)と面会をしたいという者はたくさん現れました。誰しも面会を求める李膺(元礼)はハードルを高くしなければ仕事にならなかったのでしょう。なかなか李膺(元礼)と面会できることは愚か、李膺(元礼)に高く評価されるなんて夢のまた夢でした。李膺(元礼)と面会することができただけでも国中にその名が知れ渡る。そんな状況下で李膺(元礼)がかけ離れた年齢差を越えて友人として待遇した人物が後に軍師として活躍する若き人物評論家の郭泰(林宗)でした。

郭泰(林宗)が李膺(元礼)から高評価を得た理由

李膺(元礼)が郭泰(林宗)という若き軍師を気に入り、好待遇で迎えたのは並々ならぬ理由があります。まずひとつは郷挙里選制度が外戚と宦官によって崩壊させられたためです。それまで郷里の序列は郷挙里選によって保たれていました。しかし、汚濁政治を行った外戚と宦官のせいでその階層は脆くも崩れ落ち、外戚や宦官との親しさを表すものへと変じてしまいました。世の中は郷挙里選に代わる新基準を求めていました。ふたつ目は国家の官僚としての地位も外戚、宦官への賄賂の多さによって左右されていたことです。こうした中で清流派を語る名士たちは官僚の地位の上下で表された価値基準に対抗して、独自に人物評価ランキングを作成して論じあいました。
名士たちは利己的な行動を慎み、仁義に基づいて行動し名声を高めようとしました。もはや世の中は豊かな財力や高い地位ではなく、「義である」と評価されることを求める時代へと突入しました。このように世の中の名声に自分の拠り所を求める知識人のことを総称して名士と言います。三国志ではこの名士に属する人々が大きな発言力や権勢を振るうようになるのです。そして名士が後に軍師の出身階層となります。その成立に大きな役割を果たした者こそ、郭泰(林宗)でした。

知識人の育成に努めた郭泰(林宗)

宦官による名士の弾圧(党錮の禁)で竜門たる李膺(元礼)は殺害されてしまいました。郭泰(林宗)は李膺(元礼)と親しくしていたため巻き添えを食らうのかと思いきや郭泰(林宗)はその危機を逃れることができました。人物評価はしていたものの郭泰(林宗)は決して政治批判を行わなかったので、宦官からは目をつけられていませんでした。李膺(元礼)との関係を述べてさらなる名声を得ることも可能だったのですが、郭泰(林宗)はそれよりも次代を担う知識人を育成する道を選びました。郭泰(林宗)は、かつてぜひ官僚にとスカウトされた経験があります。しかし彼は「天がすでに滅ぼそうとするものを支えることなどできない」と言ってその申し出を断っています。つまり、後漢の将来に対して絶望しかしていなかったのです。党錮の禁によって李膺(元礼)が殺害されると郭泰(林宗)は全国を行脚して人物評価をして回りました。国を立て直すことのできる人材を育てるためです。
経済力の乏しい郭泰(林宗)が長年旅を続けることができたのは、人物評価を求める各地の豪族に指示されたためです。郭泰の車には、面会を求める豪族の名刺が山積みになっていたそうです。ただし、郭泰(林宗)が高く評価した者は必ずしも豪族出身者ではありませんでした。
畜産医の子供や苦学生、門番であってもその者に才能と仁徳が備わっていれば豪族出身者と分け隔てなく接して指導しました。そして郭泰(林宗)が見出した人材は貧しい身分の出身者ながら貴族や豪族の出身者よりも才能を発揮し、皇帝や上司から認められる人物へと成長し貴族の仲間入りを果たしました。貧しい家柄でも高い人物評価を受けることで貴族になれる可能性が生まれたのです。
このように郭泰は低い社会階層の者であっても抜擢して名声を与え、名士に認定しました。これは汚れ切った世の中に衝撃を与えました。先祖代々の支配力や財力を持つ豪族であってものほほんとあぐらをかいていられなくなったのです。父や祖父の威を借りることなく自ら進んで学び、議論を行ってあの手この手で名士になろうと努力します。
こうして豪族を主たる出身階層としながらも経済力ではなく、さまざまな文化、知識を身に着けることによって得られる名声を基盤として成り立つ名士層が形成されていきました。名士たちが身に着けた学問は宗教や国家経営だけではありません。その中には軍事的に勝利を収める兵法も含まれます。このため、名士層から軍師が続々と誕生することになるのです。

まとめ

「登竜門」という故事成語を生んだ李膺(元礼)という名士と郭泰(林宗)という軍師。彼らがいなければ荀彧(文若)や諸葛亮(孔明)、龐統(士元)などの名軍師はただ口うるさいだけの存在でしかなかったことでしょう。
竜門になぞらえられた李膺(元礼)が基盤を作り、竜に変じた鯉に例えられた郭泰(林宗)が確立させた名士という階層。三国志で戦略や行政など重要な役割を担った者はすべて名士層出身の軍師です。
李膺(元礼)、郭泰(林宗)の両名こそ三国志を彩る軍師が台頭するきっかけを作った人物です。

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