漢民族が恐れた異民族~匈奴編~

漢民族が恐れた異民族~匈奴編~

6つの国を滅ばした始皇帝、中原の覇者となった漢の皇帝、あの広い中国大陸で最強と謳われた武将たちも恐れていた存在があります。それは、異民族の存在です。 その異民族の中でも長年漢民族の脅威となったのが匈奴という民族。今回は匈奴についてご紹介しましょう。


漢民族から見た匈奴

後漢王朝が崩壊した大きな要因のひとつとして、匈奴の侵攻がありました。外戚や宦官による汚濁政治が始まると内政がうまく運ばなくなります。そうなると、「今こそ好機!!」とばかりに匈奴は度々漢の領土へ侵攻し、食糧や貴金属の掠奪、女性や子供を拉致して行くといった極悪非道な行いを重ねました。
しかし、このような被害を受けていたのは後漢王朝ばかりでなく、始皇帝が一代で中華統一を成し遂げた秦王朝やその後の前漢王朝、またその後の新王朝の時代も悩みの種でした。
匈奴の脅威は後漢王朝のみの脅威ではなく、いわゆる漢民族の脅威だったのです。

匈奴とは

匈奴は紀元前4世紀ごろ、中国では春秋戦国時代の末期。あの秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙の「戦国の七雄」が覇権を争っていたときに突如としてモンゴル高原から南ロシアの草原地帯に出現した騎馬遊牧民族です。
紀元前3世紀末に冒頓単于(ぼくとつぜんう)という強力な指導者を得て匈奴帝国(遊牧連合王国とも)を築き、独自な文化と諸機構を形成して最隆盛期を迎えました。

その後は、漢を打ち破って一大勢力となって漢との対等な力を持つ民族になりましたが、前漢の武帝期には滅亡寸前まで追いやられたり、連合王国内で内戦がおこって分裂するなど分裂、滅亡、復興を繰り返して五胡十六国時代に突入し、子孫たちが趙(前趙)という国家を打ち立てました。
また、匈奴の文化と諸機構は鮮卑、突厥、柔然、契丹、女真、モンゴルなどの民族に継承され、女真は清王朝の祖、モンゴルは元王朝の祖となりました。

漢民族がビビった匈奴の戦い方

漢民族の常識となっている戦いの基本は、自身の領土や城を守備することが根幹にあります。そのため、堅固な陣立てを構えることや策略を練って敵との騙し合いに勝利することに力を注ぎます。さらに、役職についている者のプライドや上下関係の建前なども絡んできます。敵将の首級を上げなくても、撤退させることができれば勝利したことになるので、無理に攻撃をしかける必要もありません。
しかし、匈奴の軍隊はどうでしょうか?
なんの陣立てもなく、兵士のほぼ全員が馬に跨って攻め込みます。そして軍隊のほぼ全員が幼いころから馬に乗って生活してきた人間です。馬に乗ったまま弓を扱うことにも長けています。放牧している羊が狼などの天敵に襲われた際、すぐに駆けつけて殺せる能力が必要不可欠だったからです。

この戦い方に漢民族は驚きを隠せませんでした。それもそのはず、馬に乗りながら武器を扱うのは大変難しく、可動域が狭まってしまうため武器を扱う際は下馬するのが常識でした。さらに上下に揺れている状態で弓を射て、動いている人を殺すことなど誰もできやしないと思っていたからです。

陣立てを組まない理由は、匈奴の生活スタイルが大きなカギとなっています。彼らは遊牧にて生活しているので、土地に対する固執がありません。「家畜のエサとなる草がその土地からなくなれば、別の土地に移ればいい」と思っています。そのため、指導者である単于であっても城や建築物の住居を持たず、撤収と展張が用意で持ち運びができる幕舎(ゲル)で生活します。匈奴にとっては土地を奪われるよりも家畜や食料を奪われる方がよっぽどキツイのです。

漢民族の常識が通じなかった用兵の違い

匈奴の王様(指導者)のことを単于と呼びます。匈奴をまとめ上げる王は最強の戦士でなければなりません。そのため、匈奴は単于が自ら先陣を切って馬を駆り、弓を射て、白刃を振り回して斬り込んできます。そして匈奴の兵士はほぼ全員が騎乗する馬を所有しており、幼いころから馬術や騎乗した状態で弓を扱うことを訓練されています。知識として得た技術ではなく、長い年月をかけ身体で覚えた感覚や勘が働くので、想像を絶する機動力を持ち合わせていたそうです。

それに対して漢民族の戦法は、王や大将軍を後ろに鎮座させ、前方から順に力の弱い者が立ちます。
王や大将軍の指揮のもとに陣を敷き、兵士を動かし、策略を用いて勝敗を決します。軍隊の指揮をする王や大将軍は戦場の地図や模型を広げ伝令兵の報告から得られる情報しかないので、実際に戦況を
左右するのは実戦に出ている将軍たちです。弓は一人前にまで訓練するのに最低でも三年かかると言われているため、兵士たちの中には弓を扱うのが得意な者もいれば、そうでない者もいます。かならず全員に弓を持たせることはできません。さらに馬に乗れるのは、二百人将以上の裕福な家庭の者か騎馬隊の構成員くらいの者です。

簡単に言うと匈奴の軍隊はほぼ全員が騎馬して武器を扱うことができ、「俺について来い!!俺と一緒にいれば勝てる!!」というなんの根拠もない単于の言葉に従って、一生懸命に単于について行けばよいというシンプルな動き方をします。
漢民族の軍隊は構成員の大半は普段は農業や漁業、ものづくりをしている人々なので、まともに武器の扱い方や動き方を知らない人々が集まってできている集団です。指揮官の指示に従って配置にはつくものの、場合によっては小隊や中隊を仕切る将軍の指示に従わなくてはなりません。匈奴の動き方に比べるとどうしても考えることや決定権を持つ者へ情報が伝わる時間が必要になるので鈍くなります。

始皇帝も舌を巻いた匈奴の撤退

先ほど紹介した戦い方の違いに関係してくるところで撤退方法の違いにも着目してみたいと思います。漢民族はどうしても「撤退=生き恥をさらす」という考え方が染みついています。そのため、すぐに撤退に踏み切ればよいものをずるずると渋って壊滅状態に陥る軍隊も少なくありませんでした。さらに撤退するにしても適切な順序や手筈を整えなければただただ背後を襲われるばかりになります。そのよい例が合肥新城の戦いにおける呉軍の敗走です。呉軍の総大将孫権は、魏の張遼に一馬身差まで詰め寄られました。指揮官が現場から遠い位置にいるとどうしても戦況を把握するのに時間がかかってしまいます。

匈奴の場合は単于が先頭に立って戦っているので、自分たちがどういう状況にいるのかを嫌でもしることができます。匈奴の人々には撤退することが汚点と考える者はいないので、指揮官である単于も撤退の指示が出しやすい環境です。最悪「撤退」と指示を出さなくても、単于が自分自身の力で退路を見つけ出し正しくそこに導くことができれば、撤退したことにはなりません。また、匈奴には隊列という概念がないため撤退するときには我先にと散り散りに逃げて行きます。傷ついた戦友が「助けてくれ」と伸ばした手を振りほどき蹴倒してまでも逃げようとする様はまるで地獄絵図のようであったそうです。しかし、これが最も被害を最小限に抑えて逃げる方法なのです。隊列を組んで逃げようとすれば、まとまって逃げることになるので、追撃する側の軍隊はその塊だけを追いかければよいのです。散り散りになって逃げることで追手の注意力を分散させること、漢民族に「隊列も組まずに逃走するのはなにか策略があるのでは?」という不必要な警戒心を持たせることにより匈奴は幾度も被害最小限度の撤退戦を成功させています。
これには6国を攻め滅ばした秦の始皇帝も舌を巻き、匈奴を秦に取り込むことを諦めさせました。秦の始皇帝は取り込むことを諦める代わりに万里の長城を築いて匈奴と農耕民族の間に壁を作ることを決心したのでした。

三国時代の匈奴の姿

後漢が滅亡し劉備(玄徳)の興した蜀、曹操の礎を築いた魏、孫権の興した呉が並びたった三国県立時代には、匈奴の威勢も静かになりました。後漢期に匈奴内でもめ事が起きてしまい、北匈奴と南匈奴の南北に分裂してしまいました。
南匈奴は分裂後すぐに後漢に取り込まれることになりましたが、北匈奴は度々後漢に侵攻してきたが、そのたびに後漢と南匈奴に討伐されました。北匈奴はついにモンゴル高原で栄えていた鮮卑族に単于を切り殺されて滅亡しました。
南匈奴は正式に後漢に服属した後、辺境の守備にあたり黄巾党の乱の際にはこれを打つべく駆り出されました。この後南匈奴内でも内乱が起きてしまい当時の単于於夫羅(おふら)は、南匈奴本国から追放され、流浪の身となって曹操に帰順しました。於夫羅の息子の代では実権は右賢王(単于の次に偉い王)に実権を握られてしまい、事実上滅亡しました。しかし、晋の時代になって於夫羅の孫の劉淵が趙を建国しました。

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