是非訪れたい、三国志ゆかりの地を大紹介

是非訪れたい、三国志ゆかりの地を大紹介

三国志好きは、一度は中国に行ってみたいという想いがあるでしょう。ここでは三国志のゆかりの地と何が起きた場所か紹介したいと思います。歴史と地理の両面から三国志を堪能し、より身近に感じてみてはいかがでしょうか。


「赤壁の戦い」の古戦場跡

「赤壁の戦い」の古戦場跡

「赤壁の戦い」の古戦場跡

レッドクリフが上映されたことにより日本では最もポピュラーな場面となったのが赤壁の戦いです。その古戦場跡があるのが湖北省赤壁市赤壁鎮です。
ここには赤壁の戦いで孫権・劉備連合軍の大都督である周瑜(公瑾)の大きな像や、彼が岩に書いたとされる「赤壁」の文字があります。
雄大な岩場を見ると「ここで大昔大戦が繰り広げられたのだな」と思わされます。
さらにはテーマパークがあり、一度は訪れてみたい名所です。(とはいえテーマパーク自体はあまり赤壁の戦いを連想させるものではなく、あまり三国志とはゆかりがないと感じる人が多いようです)

諸葛亮(孔明)が命を懸けた場所、五丈原

諸葛亮(孔明)が命を懸けた場所、五丈原

諸葛亮(孔明)が命を懸けた場所、五丈原

五丈原は諸葛亮(孔明)が幾度も魏と対戦をした「北伐」を行ったのが場所です。一回の戦いだけ見たら「赤壁の戦い」や「官渡の戦い」の方が大きくインパクトがありますが、やはり諸葛亮(孔明)好きなら見ておきたい場所でしょう。もしくは諸葛亮(孔明)の方でなく司馬懿(仲達)好きとしても外せない場所の一つです。
この地でもし諸葛亮(孔明)が勝っていたら、もしくは司馬懿(仲達)蜀軍を圧倒していたら彼らの評価や三国志の歴史は大きく変わっていたことでしょう。
五丈原は陝西省宝鶏市岐山県五丈原鎮(西安から130キロ)の場所にあります。この地はかつて中国人民解放軍の演習場で一般人の立ち入りはできない状態でしたが、今は団体旅行客を受け入れています。
個人で行ったらもしかしたら立ち入り禁止となっているかもしれませんが、ツアー旅行などが組まれているのでこの地を見てみたいという人はツアー旅行がお勧めです。

三国志序盤の要所、虎牢関

三国志序盤の要所、虎牢関

三国志序盤の要所、虎牢関

この地は董卓軍対反董卓連合軍がしのぎを削った場所で三国志序盤の要所の一つです。日本の野球場に例えてみるとセリーグとパリーグのオールスターが行われた場所と思ってもらえれば分かりやすいかもしれません。この地での一番の見どころはやはり呂布(奉先)が劉備(玄徳)、関羽(雲長)、張飛(翼徳)相手に一人で応戦した場面でしょう。
三国志に強いとされる将軍は多いですが、呂布(奉先)が最強とされる一番の根拠となる場面だからです。
もしこの地で呂布(奉先)が敗れていたらそのまま董卓連合が反董卓連合に敗れ、そのまま反董卓連合のリーダーである袁紹(本初)が中華を自身のものにしていたかもしれません。そうなってしまったら三国志という物が誕生しなかったという可能性もありますし、後に袁紹軍対、袁紹をよしとしない曹操(孟徳)を中心とした反袁紹連合などができたかもしれません。
袁紹(本初)は董卓(仲穎)ほどカリスマ性がなかったのであれほど強い軍を作ることはできなかったかもしれませんが、逆に董卓(仲穎)ほど敵を作るタイプではないので全く読めない展開になります。
いずれにせよ三国志を大きく左右する戦いが行われた虎牢関は三国志好きなら見ておきたい場所の一つでしょう。
この虎牢関は河南省鄭州市にあります。ちなみに虎牢という地名は周朝の第5代王である穆王が虎を飼っていた地ということからこの名前になっています。

蜀推しは外せない古隆中

蜀推しは外せない古隆中

蜀推しは外せない古隆中

三国志好きでなくても一度は耳にしたことであろう言葉が「三顧の礼」ではないでしょうか。劉備(玄徳)が「臥龍」と呼ばれていた諸葛亮(孔明)の邸宅に3度も訪れようやく口説き落とし軍師として迎え入れました。その地がこの古隆中です。実はこの古隆中の遺跡はいくつもあるのですが、必見なのが三顧堂と三義殿です。三顧堂には劉備(玄徳)と諸葛亮(孔明)の像があり、三義殿には劉備(玄徳)、関羽(雲長)、張飛(翼徳)の像があります。
思わず手を合わせたくなってしまうような場所で、三国志好きにとっては是非とも訪れたい観光スポットです。
古隆中は荊州の首都である湖北省襄陽市から10~20キロ程度に位置し、近くには関羽(雲長)が攻め落としたとされる襄陽城もあるので合わせてみたいところです。

やっぱり魏でしょ!という人には許昌がお勧め

やっぱり魏でしょ!という人には許昌がお勧め

やっぱり魏でしょ!という人には許昌がお勧め

三国志でいう正義と言ったら真っ先に劉備(玄徳)率いる蜀が挙げられることが多いと思いますが、一概に魏が悪というわけではありません。中国では曹操(孟徳)の人気は高く、三国志の中心人物だったといっても過言ではありません。
出身地や人によって違うかもしれませんが、私は三国志通の中国人から中国で人気がある三国志の人物は「諸葛亮(孔明)」「曹操(孟徳)」「関羽(雲長)」だと聞いたことがあります。
そんな曹操(孟徳)率いる魏の本拠地は河南省の許昌にあります。中華の文化発祥の地とされる河南省は新たな人材やシステムを発掘しようと企む曹操(孟徳)にとってぴったりの場所だといえるでしょう。
許昌へ行くと何となく長安から遷都した理由が分かるかもしれません。さらに郊外に行くと春秋楼という邸宅があります。ここは関羽(雲長)が劉備(玄徳)とはぐれてしまい、曹操(孟徳)に一時仕えた際に使っていた邸宅です。この間曹操(孟徳)は何度も関羽(雲長)を自分に仕えるよう説得しましたが、彼は首を縦に振りませんでした。
ここには15メートルにも及ぶ関羽像があるわけですが、敵地である魏でここまで大きな関羽像が置かれているという事からも曹操(孟徳)は最後まで関羽(雲長)を口説き倒したかったと思っていたことがうかがえます。
魏推し、曹操(孟徳)好き、だけでなく関羽(雲長)好きも押さえておきたい観光スポットです。

まとめ

まとめ

まとめ

中国は広く一回の旅行で三国志ゆかりの地をすべて見尽くすということはほぼ不可能だと思います。自分の行きたいところ、好きな武将のゆかりの地に絞って「ここだけは外せない」という場所を見てみてはいかがでしょうか。
もしかしたら個人では入れないなんて言う場所もあるかもしれないのでツアーを組んでいくことをお勧めします。
また現地人のスタッフに任せると移動時間短縮ができたり、現地人にしか知りえない三国志情報やそのゆかりの地に案内してもらえたりする可能性が大です。さらにツアーガイドは三国志好きの人も多く日本では聞いたことのないようなこぼれ話を聞くことができるという事も大いに期待できます。
チップなどを渡し、自分ならではの旅を作り上げることも可能なので、三国志ゆかりの地を巡る際は「現地人スタッフをうまく使う」ということを心がけてみてください。





この記事の三国志ライター

関連する投稿


死せる孔明生ける仲達を走らす

三国時代、諸葛亮 孔明 率いるの蜀と司馬懿 仲達 率いる魏が五丈原で対陣している最中、諸葛亮 孔明が病に伏す。 そして遂にその時がやってきた。 孔明が陣中にて没したのである。 これを見た司馬懿は総攻撃に転じるが・・・


最新の投稿


空城の計 - 孔明最大の賭け 

三国志の名軍師・諸葛亮孔明が、街亭の戦いで敗れた後、追撃する魏の大軍を迎え撃つため、城門を開け放ち、悠然と琴を弾いて伏兵ありと見せかけた奇策が「空城の計」。敵将・司馬懿は疑心暗鬼に陥り退却したが実際は兵がおらず、虚勢で危機を脱した故事。『三国志演義』の創作だが、兵法三十六計の一つとして有名。フィクションでお楽しみ下さい


諸葛亮孔明「草船借箭」知略が生んだ奇跡の物語

弱小国・蜀の軍師諸葛亮孔明が、3日で10万本の矢を調達せよという無理難題に、霧夜と藁人形を使った前代未聞の奇策で応えた「草船借箭」の逸話。絶望的状況を知恵と創意工夫で切り抜け、赤壁の戦いへの道筋を開いた古の智者の教えは、不可能を可能にする人間の潜在能力を示す感動の物語です。


三国志ってなんなのさ? 魏・呉・蜀って世界史で学んだような?

『三国志』は、後漢末期から三国時代にかけての中国大陸を舞台に、魏・呉・蜀の三国が覇権を争う壮大なドラマと言えます。 その魅力を伝えたい。なぜ、魅力があるのか考えながら解説していきます。


”匈奴”草原を風のように駆け抜け帝国を震え上がらせた遊牧の戦士

想像してみてよ。広大なモンゴル高原を、風のように馬を駆け巡る人々がいたんだ。彼らは「匈奴(きょうど)」って呼ばれる遊牧騎馬民族。時は紀元前3世紀末から後1世紀末。彼らの暮らしはまるで大地と一体化したようで、馬と共に移動しながら生きていた。その姿は勇猛果敢で、各地の国々を相手に壮絶なバトルを繰り広げていたんだよ。


キングダム 蒙恬の死因とは? その真実に迫る

蒙恬は、コミック、キングダムにおいて主人公・信と同世代の武将であり、名門武家の出身でありながら、飄々とした性格で周囲を和ませる一方、戦場では冷静沈着な指揮官として才能を発揮。楽華隊、その旗印である「楽」の文字通り、戦場においてもどこか余裕を感じさせる姿は、多くのファンを魅了しています。史実では?死因は?興味あり。


アクセスランキング


>>総合人気ランキング

最近話題のキーワード

三国志の魅力と登場人物で話題のキーワード


故事 三顧の礼 泣いて馬謖を斬る 苦肉の策(苦肉計) 破竹の勢い