三国志・董卓のような暴君か、劉禅のような暗君か、呉のラストエンペラー孫皓の器量

三国志・董卓のような暴君か、劉禅のような暗君か、呉のラストエンペラー孫皓の器量

呉の最後の皇帝である「孫皓」。残虐な皇帝として有名ですが、はたしてどのような器量だったのでしょうか。


呉の初代皇帝・孫権の病没

呉の初代皇帝・孫権の病没

呉の初代皇帝・孫権の病没

呉の初代皇帝は孫権です。皇帝に即位したのは229年のことになります。諸葛亮による第一次北伐が行われた翌年です。魏の皇帝は二代目の曹叡、蜀の皇帝は二代目の劉禅とそれぞれ代替わりしていました。

その孫権が死去するのは252年です。前年には魏で実権を握っていた司馬懿が亡くなっています。呉は太子の孫亮が孫権の跡を継ぎ皇帝に即位しました。孫亮はわずか10歳だったために実権は諸葛恪が握ります。

このときの状況としては、魏は三代目皇帝の曹芳、実権は司馬師、蜀は二代目皇帝の劉禅、実権は費禕、呉は二代目皇帝の孫亮、実権は諸葛恪という構図になります。

呉の迷走

呉の迷走

呉の迷走

孫権が亡くなってから呉は迷走を始めます。(実際は孫権の晩年から呉はおかしくなっています)
実権を握っていた諸葛恪が、孫亮と孫峻に暗殺されると、今度は孫峻が実権を握りました。孫峻はこの後、何度も暗殺されそうになりながらも計画を事前に看破し寿命をまっとうします。孫峻の死後は従弟の孫綝がその権力を引き継ぎ、専横することになります。

258年、皇帝・孫亮は孫綝を誅殺しようと画策しますが、事前に発覚し、廃位されてしまいます。孫綝は三代目皇帝に孫亮の兄である孫休を擁立しました。
孫休は皇帝に即位し、孫綝を丞相に任じながらも、密かに排除する計画を進めます。そして同年の12月に孫綝を誅殺することに成功するのです。

こうして血で血を洗う政争劇は一度落ち着くことになります。
ちなみに孫綝によって廃位され会稽王に降格されていた孫亮は、孫綝が誅殺されて後も皇帝に復帰する恐れがあるとして孫休によってさらに降格させられ、自害しました(毒殺説もあり)。

四代目皇帝の即位

四代目皇帝の即位

四代目皇帝の即位

そんな中、魏でも熾烈な権力争いが続いており、なんと皇帝の曹髦が自ら兵を率いて実権を握っていた司馬昭に対しクーデターを敢行、返り討ちにあっています。
司馬昭は次の皇帝に曹奐を即位させ、263年には鍾会、鄧艾、諸葛緒に蜀を攻めさせて滅亡させました。

呉の皇帝・孫休が病没するのはその翌年・264年のことです。蜀という同盟国を失った呉の四代目皇帝に即位したのは、かつて孫権によって廃太子された孫和の子・孫皓でした。孫権の孫ということになります。これが呉のラストエンペラーです。

孫皓は自身の皇帝即位に尽力した丞相・濮陽興と左将軍・張布をその年のうちにすぐに殺してしまいます。こうして呉は皇帝・孫皓の独壇場となるのです。
265年には司馬昭の跡を継いだ司馬炎が魏より禅譲を受けて晋を建国。初代皇帝となります。
魏・蜀・呉の三つ巴の戦いは、いつしか晋と呉の一騎打ちとなっていました。

孫皓の残虐性

孫皓の残虐性

孫皓の残虐性

三国志演義は、蜀が滅亡するとともにあっという間に晋の統一を迎えるので、孫皓についてはほとんど描かれていません。
三国志正史によると、前皇帝である孫休の皇后や子らを殺害。酒や女に溺れ、無理やり酒を飲ませて失言のあった家臣は目玉をえぐり、顔の皮を剥ぐなどして暴虐の限りを尽くしたとあります。さながら献帝を傀儡として朝廷を牛耳った董卓のような残虐行為です。

三国志演義の最終話となる120回目に初めて登場した際には、孫皓の政が非難されています。
呉征伐軍の総司令官であった晋の賈充は「このような残虐行為はどういった刑罰なのか」と皮肉たっぷりに質問したそうです。孫皓は「人臣にして君主を弑し、姦邪不忠の者に加える刑だ」と答えました。賈充は以前、魏の皇帝・曹髦が司馬昭に対しクーデターを起こしたときにこれを鎮め、主君である曹髦を殺害していたからです。これを聞いて賈充は絶句しています。

呉の滅亡

呉の滅亡

呉の滅亡

279年、晋は数路に分かれ20万を超える大軍で呉を攻めました。すでに多くの将が呉を見限り晋へと離反しており、抵抗という抵抗もできず、孫皓は益州から水軍を率いてきた王濬に降伏します。

孫皓の身柄は、蜀が降伏した際の劉禅のように洛陽に送られました。そして孫皓は帰命侯に封じられます。
司馬炎は孫皓に対し、「ここにそなたの席を設けて待っていたぞ」と声をかけると、孫皓は「私も呉で同じく席を設けて陛下をお待ちしていました」と答えています。

このように孫皓は、司馬炎に対しても、賈充に対しても劉禅には真似できないような切れ味のある対応をしています。孫皓が暗愚な皇帝ではなかったことを示すエピソードです。

しかし、三国志正史を著者である陳寿は、「孫皓は度し難い悪人で、殺さずに侯に封じたのはやり過ぎ」と酷評しています。

孫皓の一面

孫皓の一面

孫皓の一面

残虐性ばかりがクローズアップされる孫皓ですが、別の一面もあったことが記載されています。
寵愛していた側室が亡くなった際には、塞ぎ込んで数ヶ月も部屋に閉じこもっていたそうです。孫皓はそのまま亡くなったのではないかという流言が飛び交うほどでした。一途な側面も垣間見ることができます。愛情は深い人物だったのかもしれません。

また、晋に降伏した際には、家臣たちに手紙を書き、呉が滅亡したのは自分の責任なので気にせずに晋に仕えて活躍するように述べています。
残酷に家臣を虐殺していた孫皓とは思えぬ心遣いです。呉が滅んで、何かサッパリしたような印象をこの時の孫皓からは感じ取れます。

まとめ・孫皓の器量

まとめ・孫皓の器量

まとめ・孫皓の器量

孫皓の父親・孫和は本来であれば二代目皇帝に即位するはずでした。それが家臣たちの讒言によって廃太子され、さらに諸葛恪の姪を妻にしていたために諸葛恪が暗殺された際に誅殺されています。そのような境遇が孫皓を狂わせたことは間違いありません。
孫皓は即位する以前、聡明で学問を好む人物として有名で、呉の再建を託されていたのです。それが即位した後に一変します。
孫皓は呉に復讐し、呉に引導を渡すために名君を装い、四代目皇帝に即位したのかもしれません。
だとしたら知略に富んでいた人物だった可能性があります。
実際に晋に占領されていた交趾を奪還するという成果もあげているのです。

呉で内紛が起こらず、自然な流れで孫皓が皇帝となっていたとしたら、歴史は変わっていたかもしれません。劉備(玄徳)、孫権以外で唯一、魏や晋といった大国に対峙できた器量のある皇帝は孫皓だけだったのではないでしょうか。





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