三国志に登場する人物の祖先にスポットを当てると、かつては歴代の大臣であったり偉業を成し遂げた武将である人物に行きつくことがあります。
すると、なぜ彼らがお金持ちの家の出身であったのか、皇帝でさえ気を使わなければならない人物であるのか等がわかり、三国志からさらに派生して前漢期や春秋戦国時代の話にも興味が湧いてきます。
今回の記事では、三国志の豆知識として是非知っておいてもらいたい、三国志の武将たちの祖先についてご紹介させていただきます。
張遼(文遠)
■ 張遼(文遠)
張遼(文遠)
張遼(文遠)は前半生は主君に恵まれず不遇の青年期を送った人物で関羽(雲長)の親友でもあります。魏の曹操(孟徳)に仕官してからは、斬り込み隊長として常に最前線で活躍した魏の猛将です。
聶壱(じょういつ)
■ 聶壱(じょういつ)
聶壱(じょういつ)
聶壱(じょういつ)は前漢期、馬邑(ばゆう)という地域を治めていた富豪です。姓は張遼(文遠)と異なるのですが、以下のような経緯があり改姓します。
紀元前133年に起きた馬邑の役(ばゆうのえき)。これは聶壱と王恢(おうかい)が共に武帝から密命を賜り、匈奴を討伐するために企てた奇襲です。
武帝より下知(命令されること)された聶壱と王恢は匈奴と漢の間で交わされていた貿易を利用し、
軍臣単于(ぐんしんぜんう)を誅殺する計画を練りました。
その計画は、聶壱が運搬してきた貢物を軍臣単于に見せる機会を利用し、暗器で殺害する計画でした。
ところが、野生の勘とも言うのでしょうか?聶壱と王恢の行動を怪しんだ軍臣単于が、ひとりの漢側の将軍を捕らえて計画の仔細を聞き出してしまいました。
軍臣単于は「やはりか!!」と己の直感に間違いがなかったことを確信すると、なにもせずに至急草原地帯へと撤収してしまいました。
そのため馬邑の役は、暗殺するターゲットがいなくなってしまったので、失敗に終わりました。しかし、問題はそのあとです。
聶壱は匈奴の一族から復讐されることを恐れて姓を「聶」から「張」へ改正しました。また改正した理由については、奇襲作戦失敗による武帝の逆鱗に触れることを恐れて、姓名を変えたとも言われています。
諸葛亮(孔明)と諸葛瑾(子喩)
■ 諸葛亮(孔明)と諸葛瑾(子喩)
諸葛亮(孔明)と諸葛瑾(子喩)
諸葛亮(孔明)と諸葛瑾(子喩)の兄弟は、三国志を語るには欠かすことのできない存在です。諸葛兄弟は使える君主は違えど、双方名参謀として采配を握った国の頭脳とも言うべき人物でした。二人は特に文官としての印象が強く、剣を振るって戦場を駆け巡る姿が似つかわしくありません。しかし、この兄弟のご先祖様は子孫たちのように落ち着いたイメージとはかけ離れ、過激派な方でした。
諸葛豊(しょかつほう)
■ 諸葛豊(しょかつほう)
諸葛豊(しょかつほう)
諸葛豊(少季)は経書(詩経)に長じていたことから郡の文官となり、”剛直な人”と評判になった人物です。その剛直さを買わ前漢第10代皇帝の元帝によって司隷校尉(中央の官僚を取り締まる警察署長)に抜擢されました。諸葛豊はたとえ神様仏様であろうと関係なく監察弾劾するような生真面目な人物でした。
諸葛豊は善いと判断した者は褒め讃え、悪いと判断した者はその者の犯した罪をみんなの前で告訴しました。
諸葛豊が司隷校尉就任当時に、朝廷を揺るがす事件が起きました。元帝の母親の親戚にあたる許章(きょしょう)の食客(しょっかく)が
犯罪に手を染め、それを召抱えていた許章も当然のことながら取調べの対象となりました。
そのため「法がすべて」を信条としていた諸葛豊は、かねてよりこの事件を解決させるため許章を弾劾しようとしていました。ある日諸葛豊が都の取締をしていると偶然許章の屋敷を通りかかりました。許章は折悪くも外出するために屋敷の前に停めていた馬車にちょうど乗り込んだところでした。それを目撃した諸葛豊は当時はまだ司隷校尉に与えられてた節(兵士を自由に動員させることのできる木札)を掲げ、「逮捕だ!!いますぐ下車せよ!!」と命令しましたが、許章は下車せず馬車を走らせて宮殿に逃げ込んでいきました。
諸葛豊は許章を追いかけ宮殿へと入りましたが、許章は元帝に助けを求めていました。諸葛豊は元帝に逮捕の許可を求めましたが、聞き入れてもらえず、節を掲げて外戚を追いかけたのが軽率な行動であったということで節を取り上げられてしまいました。
これ以降諸葛豊は朝廷の爪はじきになってしまい、あろうことか悪口をたたかれるようになってしまいました。さらに後々元帝の不信を買ってしまうような上奏をしてしまったことで官位を剥奪されてしまい、無官のまま死を遂げました。
なお、司隷校尉が節を持てなくなったのは諸葛亮(孔明)と諸葛瑾(子喩)の先祖である諸葛豊の過激な行動のせいだったと言われています。
周喩(公瑾)
■ 周喩(公瑾)
周喩(公瑾)
周喩(公瑾)は呉の小覇王孫策(伯符)の無二の親友であり、美周郎と呼ばれた眉目秀麗、高身長かつ才能豊かな武将です。周喩の家柄は先祖代々朝廷で官僚を歴任しており、江東地方では有名な名家でした。
周栄(しゅうえい)、周忠(しゅうちゅう)、周異(しゅうい)
■ 周栄(しゅうえい)、周忠(しゅうちゅう)、周異(しゅうい)
周栄(しゅうえい)、周忠(しゅうちゅう)、周異(しゅうい)
周栄(しゅうえい)は周喩(公瑾)の世代から数えて5代前の高祖父にあたります。周栄(しゅうえい)が尚書令(しょうしょれい:宮殿の秘書長官)に就任したのをはじめとしてどんどん周家出身者が官僚となって政治に参加することになります。
周景(しゅうけい)の爵位を引き継いだ周忠(しゅうちゅう)は周喩(公瑾)の父親の従兄弟で親子2代で三公の中の大尉と言われる軍事大臣のトップを歴任しました。さらに父親の周異(しゅうい)は当時の都洛陽を束ねる県令を務めました。
この状況を日本の役職にあてはめて説明すると衆議院議長、防衛大臣、都知事が同じ家系の出身者で、親戚同士ということになります。
まとめ
■ まとめ
まとめ
いかがでしたか。「覚醒遺伝」という言葉があるように、何代か後の子孫が祖先の能力や性格に限りなく近い形質をもった子供が生まれることが稀にあるそうです。三国志の本編ではあまり語られることのない情報なので、三国志ファンのあなたも初耳なのではないでしょうか。
もしかすると、あなたのご先祖様にも歴史に名を残しているかもしれません。これを機にご自身の家系を調べてみませんか。意外な発見があるかもしれません。