引き裂かれる大地
■ 引き裂かれる大地
引き裂かれる大地
風は冷たく、そして酷く血の匂いがした。
紀元前242年の暮れ。趙の国境に近い高台に立ち、私――龐煖(ほうけん)は、東の空をただ見つめていた。老境に至ったこの身の骨に、大陸を吹き抜ける乾いた風が容赦なく凍み入る。
「また、城が落ちましたか」
背後に佇む若き将が、低く、押し殺したような声で呟いた。趙の未来を背負うべき男、李牧(りぼく)である。彼の眼差しは、はるか南、魏の国境へと向けられていた。
その言葉が意味する現実を、私はすでに知っていた。秦の老将・蒙驁(もうごう)率いる鉄騎の群れが、魏の領土を文字通り蹂躙したのだ。酸棗(さんそう)をはじめとする、実に二十もの城が一夜にして秦の手に落ちた。秦の宰相・呂不韋(りょふい)が放ったその刃は、ただの領土拡張ではなかった。秦は占領地に「東郡」を設置し、その版図はついに、東の果てにある「斉」の国境へと達してしまった。
それは、残された六国(斉・燕・趙・魏・韓・楚)にとって、決定的な死刑宣告に等しかった。
「魏の腰骨が折られた。これにより、我ら北の諸国と、南の楚は完全に分断されたわけだ」
私は静かに口を開いた。道家であり、縦横家でもある私は、歴史の大勢というものを冷徹に見つめる術を知っている。だが、この時ばかりは胸の奥で、どす黒い感情が渦巻くのを止められなかった。
秦による各個撃破の盤面が、完成しつつあった。
その恐怖は、南の大国・楚をも震撼させていた。秦の圧倒的な軍圧に耐えかねた楚は、かつての栄華の都である「陳(ちん)」を捨て、さらに東の「寿春(じゅしゅん)」へと遷都を余儀なくされた。かつて「郢(えい)」から追われ、これで二度目の遷都である。天下に覇を唱えた大国が、狼に追われる羊のように、ただひたすらに東へと逃げ惑う。
「このままでは、一人ずつ屠殺場へ送られるのを待つだけです」
李牧の拳が、みしりと音を立てて握りしめられていた。
彼の言う通りだった。六国は皆、自国の保身ばかりを考え、隣国が滅ぶのを冷ややかに見つめてきた。その結果がこれだ。もう逃げ場はない。
残された道は、ただ一つしかなかった。
幻影の旗
■ 幻影の旗
幻影の旗
紀元前241年。趙の都・邯鄲(かんたん)に、楚からの使者が訪れた。
差出人は、楚の宰相・春申君(しゅんしんくん)。戦国四君の一人に数えられる、当代きっての英傑である。
書状を開いた私は、そこに刻まれた一文字に目を細めた。
「合従(がっしょう)」
脳裏をよぎったのは、はるか昔、この大陸に伝説を残した一人の男の姿だった。蘇秦(そしん)。かつて六国の宰相印を帯び、すべての国を一つに束ねて秦を震撼させた稀代の縦横家。春申君は、この絶望の淵にあって、蘇秦の遺した幻影をもう一度、この地上に呼び戻そうというのだ。
「龐煖先生。あなたに、この大軍のすべてを率いていただきたい」
邯鄲の会戦の場で、春申君の使者は私に頭を下げた。
楚の考烈王(こうれつおう)を「合従長(盟主)」とし、楚、趙、魏、韓、燕の五カ国が結集する。そのすべての実戦指揮を執る総司令官に、この私を指名してきたのだ。
私は、自らの白髪の混じる髭をなでた。私は兵法家であると同時に、思想家でもある。この合従がいかに壊れやすく、諸国の思惑がいかに利己的であるかは、戦う前から見抜いていた。勝算は薄い。下手をすれば、すべての泥をかぶって歴史の敗者となる役回りだ。
「先生、行かれるのですか」
出陣の前夜、李牧が私の天幕を訪れた。彼は今、北方の雁門関(がんもんかん)で、容赦なく襲来する匈奴(きょうど)の防衛にあたっている。趙の最強の盾である彼を、この合従軍に連れて行くことは叶わなかった。もし李牧がこの戦いに加われば、合従軍の勝率は跳ね上がっただろう。しかし、北方をおろそかにすれば、趙はその背後から崩壊する。
「往くさ、李牧」
私は若き名将の肩を、ぽんと叩いた。
「お前は趙の、いや、この大陸の未来だ。ここで秦と刺し違えて良い命ではない。泥をかぶる役は、私のような老い先短い老骨がやればいいのだ」
「ですが……!」
「李牧よ。蘇秦が夢見た合従は、確かに幻かもしれない。だがな、皆が自国の利を捨てて手を携えるという奇跡を、最後に一度だけ、この目に焼き付けたいのだ。秦という巨大な闇に、人間が誇りを持って抗う姿をな」
李牧は深く頭を下げ、それ以上は何も言わなかった。彼の瞳に浮かんだ涙が、灯火に反射してきらりと光った。
私は趙の兵を率い、約束の地へと向かった。楚、趙、魏、韓、燕。かつて殺し合った国々の旗が、一つの風にたなびいていた。それは、滅びゆく戦国という時代が見せた、最後の、そして最も美しい夢の始まりだった。
不落の巨壁
■ 不落の巨壁
不落の巨壁
「あれが……函谷関(かんこくかん)か」
合従軍の前線に立った時、私は思わず息を呑んだ。
天を突き刺すような峻険な山々と、深く切り立った谷。その狭間に、まるで大地から生えた巨獣のように、強固な城壁がそびえ立っていた。秦の東の門であり、これを破らねば秦の心臓部である咸陽(かんよう)には辿り着けない、難攻不落の要塞。
背後を振り返れば、数十万の合従軍がひしめき合っている。これほどの大軍、歴史上そうそう見られるものではない。しかし、私の目は欺けなかった。
「楚軍、また一歩下がったぞ」
「魏軍は韓軍が突撃するのを待っているらしい」
天幕の中で交わされる将たちの言葉は、猜疑心に満ちていた。
名ばかりの盟主である楚の考烈王は後方に引きこもり、実質的な推進者である春申君も、各国の綱引きに奔走して疲れ切っていた。
「誰が最初に突撃し、血を流すのか」
その一点において、五カ国の足並みはすでに、音を立てて乱れ始めていたのだ。
一方、函谷関の城壁の上。
そこには、未だ二十代前半の、若き秦王・政(せい)が立っていると噂されていた。後の始皇帝である。彼はまだ親政を行っておらず、実権は宰相・呂不韋の手にあったが、その城壁から見下ろす秦軍の気配には、一片の揺らぎもなかった。
「彼らには、背負うべき『国』という一つの意志がある。だが、我らにはそれがない」
私は夜空を見上げ、独りごちた。
五カ国の連合は、しょせん恐怖によって結ばれた野合に過ぎない。対する秦は、商鞅(しょうおう)の法以来、一丸となって獲物を喰らう狼の集団だ。
だが、ここで退くわけにはいかない。私は総司令官として、全軍に指令を発した。
「全軍、突撃の準備をせよ。明日の日の出とともに、あの門を叩き割る」
老いた私の体に、かつて忘れていた熱い血が巡るのを感じていた。勝敗ではない。我らが生きてきたこの「戦国」という世界のプライドを、あの若き秦王に見せつけてやるのだ。
咆哮する門
■ 咆哮する門
咆哮する門
紀元前241年、運命の朝。
突撃を告げる太鼓の音が、函谷関の谷間に地鳴りのように響き渡った。
「往けい!」
私の号令とともに、合従軍の兵たちが怒涛の如く城壁へと押し寄せた。雲梯がかけられ、弩弓の矢が雨のように空を覆う。人間の絶叫と、鉄と鉄がぶつかる轟音が、難攻不落の関を揺るがした。
しかし、秦の守りは文字通り鉄壁だった。
城壁の上から降り注ぐ熱油と巨石。合従軍の兵たちは、関に触れることすらできずに、次々と物言わぬ骸へと変わっていく。
「先生! 前線が持ちません! 韓軍が退却を始めました!」
伝令の悲痛な叫びが響く。やはり、懸念していた足並みの乱れが始まった。一角が崩れれば、連鎖的に全軍が瓦解する。
「おのれ……!」
私が自ら剣を抜き、前線へ赴こうとした、その時だった。
重低音を響かせ、函谷関の巨大な城門が、ゆっくりと開いていくのが見えた。
「何……? 籠城を捨てるというのか!?」
私は目を見張った。守っていれば絶対に負けないはずの秦軍が、自ら門を開けたのだ。
その門の向こうから現れたのは、黒い甲冑に身を包んだ、秦の精鋭たちであった。当時の秦には、王翦(おうせん)や蒙恬(もうてん)といった、後に天下を震え上がらせる怪物の雛形たちが揃っていた。彼らを統べる秦の将軍(その名は史書に克明には残されていないが)が、狂気を孕んだ咆哮とともに、合従軍に向けて突撃を敢行してきたのだ。
籠城戦だと信じ切っていた合従軍は、この不意の「打って出る」秦軍の猛攻に、完全に虚を突かれた。
「退くな! 踏みとどまれ!」
私は叫んだ。喉から血が噴き出すほどに叫んだ。
しかし、恐怖は伝染病のように一瞬で数十万の軍勢を飲み込んだ。秦軍の容赦ない刃が、魏の陣を切り裂き、韓の旗をなぎ倒す。楚の軍勢は、自国の被害を恐れていち早く後退を始めていた。
「これが……王の軍隊か」
秦軍の圧倒的な強さの前に、我が趙の兵たちも次々と討ち取られていく。私の目の前で、何十年もともに戦ってきた部下たちが、泥にまみれて倒れていった。
「龐煖先生! ここは危険です、お退きください!」
側近たちが私の身体を抱きかかえ、後方へと引きずっていく。
遠ざかる視界の中で、函谷関の門から溢れ出る黒い津波が、我ら五カ国の夢を、プライドを、無残に踏みにじっていく光景が見えた。
大敗だった。
蘇秦の再現を夢見た大合従は、秦の圧倒的な武力と、人間の内なる弱さの前に、完膚なきまでに打ち砕かれたのである。
残照の路
■ 残照の路
残照の路
敗戦の夜。
撤退する合従軍の列は、生気を失った幽霊の群れのようだった。
後方を振り返れば、闇の中に浮かび上がる函谷関のシルエットが、まるで我らを嘲笑うかのように冷たくそびえ立っていた。
「終わったな、先生」
馬を並べた春申君が、力なく笑った。彼の顔には、一国を背負う宰相の威厳はもう残っていなかった。ただ、壮大な夢に破れた一人の男の、深い絶望だけがあった。
この敗戦により、諸国が連帯して秦に立ち向かう「合従」という戦略は、事実上、完全に息の根を止められた。もはや、秦の東方進出を止める術は、この大陸のどこにも残されていない。
私は、懐から一枚の竹簡を取り出した。そこには、道家の教えが記されている。
「春申君よ。形あるものは必ず滅びる。我らの国も、この戦国という時代もな」
「……分かっておいでだったのか、こうなることを」
「分かっていたさ。だがな、滅びると分かっていても、抗わねばならぬ時がある。我らがここで見せた足掻きは、決して無駄ではない」
私は北の空を見上げた。そこには、趙の国を守り続ける李牧の星が、静かに輝いているように見えた。
「李牧、私はここまでだ。我らの時代は、この函谷関の前に沈む。あとはお前たちの時代だ。秦という怪物を相手に、どこまで戦えるか……見届けさせてもらうぞ」
心の中で、愛弟子への遺言を呟いた。
この戦いからわずか二十年後の紀元前221年。
あの城壁の上にいた若き秦王・政は、六国をすべて滅ぼし、歴史上初の「始皇帝」となる。天下は秦の前にひざまずき、長きにわたる戦国時代は幕を閉じる。
しかし、歴史の教科書がどれほど秦の偉業を讃えようとも、私は知っている。
あの紀元前241年。絶望的な状況の中で、自らのプライドと生存を賭けて手を取り合い、不落の巨壁に立ち向かった男たちがいたことを。名もなき兵士たちの流した血が、あの函谷関の麓を赤く染めたことを。
勝者だけが歴史を作るのではない。
敗者たちの放った最後の輝きこそが、激動の春秋戦国時代を、最も美しく、そして切なく彩ったのである。
私は静かに目を閉じ、馬を進めた。残照が、老将の背中を静かに照らし出していた。
映画キングダムを見て、春秋戦国時代に興味を持ちました。