1.生まれたタイミングと環境
■ 1.生まれたタイミングと環境
1.生まれたタイミングと環境
生まれるタイミングが遅かった!
■ 生まれるタイミングが遅かった!
生まれるタイミングが遅かった!
孫権がよく比べられる相手としては、劉備(玄徳)や曹操らがいます。孫権は劉備(玄徳)と手を結んで、曹操と赤壁の戦いで戦っています。そのイメージが強いため、孫権は彼らと比べられやすく、同時代だと思っている方が多いです。
しかし、実際には時代が微妙にズレています。孫権が生まれたのは182年とされています。その一方で、劉備(玄徳)は161年の生まれで、曹操は155年の生まれです。つまり、孫権とは、20歳以上も年齢が若いのです。
つまり、劉備(玄徳)や曹操と孫権は1世代ほどの違いがあり、同世代とは言えず時代背景が異なります。そのため、単純に劉備(玄徳)や曹操らと孫権を比較するのはナンセンスなのです。
若くして呉の君主に!
■ 若くして呉の君主に!
若くして呉の君主に!
孫権が呉の君主になったのは、200年のことです。まだ孫権は19歳だったのですが、父親の孫堅は184年に亡くなっており、兄の孫策も200年に亡くなってしまい、孫権が呉の君主になったのです。
孫権は、孫堅や孫策から引き継いだ武将たちを上手にまとめ挙げ、積極的に人材登用をしています。しかし、若干19歳で君主になるのは大変であり、廬江太守である李術が離反したり、従兄弟の孫暠が反乱を企てたりするなど苦労が多かったのです。
父親や兄が早死したことにより、国内の環境はあまり良くなかったと考えられます。生まれるタイミングが遅かったことに加え、国を引き継いだ際の国の環境を考えれば、まとめ上げるのは容易ではなく天下取りが難しくなった要因と考えることができます。
国の位置も悪かった!
■ 国の位置も悪かった!
国の位置も悪かった!
環境と言えば、孫策から引き継いだ国の位置もまた悪かったです。位置的に山岳地帯が多く、非漢民族である山越が近くで活発に活動していたのです。そのため、孫権は山越対策もする必要があり、領地の統治や他国との戦いに注力することができないこともありました。
実際に、孫権が君主になってまもない203年には、山越の反乱が活発になっています。孫権は呂範に命じて鄱陽を平定させたり、賀斉に命じて反乱を収めたりしています。その後も、206年に周瑜らを率いて山越討伐を行ない、1万人余りの捕虜を得ているのです。
このように、孫権は山越に対して様々な対策をしなければならなかったのです。これは勢力的にはロスと考えることができ、引き継いだ国の位置という環境も天下が取れなかった理由に挙げられます。
2.周瑜の死が早すぎた!
■ 2.周瑜の死が早すぎた!
2.周瑜の死が早すぎた!
周瑜による策なら…
■ 周瑜による策なら…
周瑜による策なら…
孫権は、周瑜によって提案された天下二分の計が成功していれば、天下を取ることができた可能性があります。赤壁の戦いの後に、周瑜は江陵に目を付けて攻略することに成功しています。周瑜は孫権に対し、劉備(玄徳)を篭絡することを献策しているのですが、残念ながら時期早々と却下されたのです。ここで、劉備(玄徳)を篭絡できておれば、状況は全然違うものになったでしょう。
しかし周瑜は諦めません。周瑜は曹操軍が赤壁の戦いによって疲弊していることを見抜き、益州を占領して魏に対抗することを計画します。益州占領後、漢中の馬超とも同盟を結び、周瑜らは襄陽から曹操軍を攻め立てようと計画したのです。この計画なら、複数から同時に曹操軍を攻めることができ、曹操軍を打ち破ることができる可能性があります。
この献策については、孫権も承諾しています。孫権としても、曹操に勝てる可能性を見出したのでしょう。この計画が最後まで実行されていれば、孫権が曹操を打ち破って天下を取っていた可能性はあるのではないでしょうか。
周瑜の死…
■ 周瑜の死…
周瑜の死…
しかし、残念ながら周瑜が計画した作戦は途中で終わってしまいます。なぜなら、周瑜は遠征の準備中に巴丘で急死したのです。この時、周瑜はまだ34歳という若さであり、もし周瑜が死んでおらず、計画が順調に進んでいけば、孫権が天下を取った可能性があります。
このことを考えると、孫権には運が足りなかったのかもしれません。周瑜が後10年ぐらい生きていれば、状況も変わっており、天下を取れた可能性があります。よくよく考えると、生まれた場所やタイミング、国の環境なども運であり、孫権は運が足りなかったという言い方が一番わかりやすいのかもしれません。
ちなみに、周瑜の立ち位置には魯粛が引き継ぐことになったのですが、計画自体は変更されています。その結果、劉備(玄徳)との共存方針が採られており、周瑜の渾身の策である天下二分の計は無くなってしまったのです。
3.兵力が足りなかった!
■ 3.兵力が足りなかった!
3.兵力が足りなかった!
兵力が足りない呉軍
■ 兵力が足りない呉軍
兵力が足りない呉軍
孫権が天下を取れなかった理由としては、兵力が足りなかったという考え方もあります。実際に、正史三国志では孫権が魏に対抗するため、兵力不足を補おうとして夷州に兵を派遣して住民を攫おうとしたという記述があります。簡単に言ってしまえば「人狩り」なのですが、「人狩り」をしなければならないほど、兵力不足だったと見ることができます。
ちなみに、夷州とは現在の台湾と言われているようです。また、夷州だけでなく亶洲も「人狩り」の対象とされていたという説があります。そして、亶洲とは日本の種子島なのではないかと言われているのです。
失敗した「人狩り」
■ 失敗した「人狩り」
失敗した「人狩り」
夷州や亶洲の住民を攫おうとしたわけですが、実はこの計画は失敗しています。陸遜らは夷州や亶洲への出兵に反対するのですが、孫権は諸葛直と衞温に命じて、夷州や亶洲に1万出兵させるのです。しかし、結果は大失敗に終わっています。出兵した兵士の多くが、疫病で亡くなったとされており、僅かな兵士が夷州の数千人を連れ帰ったと記されているのです。
この作戦失敗によって、諸葛直と衞温は責任を問われて処刑されています。結局のところ、「人狩り」は失敗しており、兵力不足の解消は最後までできませんでした。このことから、兵力が足りなかったというのも、孫権が天下を取ることができなかった理由と言えるでしょう。
4.まとめ
■ 4.まとめ
4.まとめ
今回は、孫権が天下を取ることができなかった理由について紹介してきました。まず、生まれたタイミングや国の位置など、環境要因が挙げられます。さらに、周瑜の早すぎる死により、天下取りが難しくなってしまいます。そして、慢性的な兵力不足を解決することができず、結果として天下を取ることはできなかったのです。運が足りなかったと言ってしまうのが一番わかりやすいかもしれません。運が足りなかったということは、天下を取る運命になかったのでしょう。