三顧の礼

地位ある者が、賢者に礼を尽くしてお願いすること。 日本の歴史では豊臣秀吉が竹中半兵衛を家臣に加える際に自ら出向き、口説き落としたことなどが相当します。

この三顧の礼という故事成語は、ご存じの方も多い有名な劉備と諸葛亮孔明が初めて出会い、ともに志を誓い合ったという逸話から生まれた言葉です。

曹操に追われて荊州の牧、劉表のもとに身を寄せて新野に駐屯したまま、数年間鳴かず飛ばずの歳月を送っていた劉備のもとへ、ある日徐庶という者が訪ねて来ました。劉備はこの徐庶がなかなかの人物であることを知り、天下の形勢などを語り合っていたうちに「わたしの友人に諸葛亮孔明という者がおり、隆中に隠棲しているのですが、彼は臥龍というべきなかなかの人材です。

将軍は会ってみたいとは思われませんか」と徐庶が言ったので、
「あなたがその方を連れてきてくだされば、ありがたいのですが…」
と劉備が懇願すると
「彼は、訪ねていけば会うかもしれませんが、呼び寄せるなどということはできません。もし将軍が彼に会ってみようと思われるならば、自らお訪ねになられるよりほかありません」
と徐庶に言われたため、劉備は関羽・張飛をつれて自ら孔明を訪ねて隆中へと出かけたが、孔明は不在であったため、数日後に再び隆中の孔明のもとへ訪ねた。しかしその日も孔明はおらず、弟の諸葛均がいたため、劉備は筆と紙を借り、漢の王室を救いたいこと、孔明の助けを得たいことを手紙に書き、諸葛均に託して帰った。

年が明けて建安十二年の春に劉備はまた孔明を訪ねていき、はじめのうちは孔明はなかなか承知しなかったが、劉備の誠意に動かされて、ついに山を出て劉備を助ける決心をしたのでした。

これが「三国志演義」に語られている「三顧」のくだりのあらましです。

故事成語となった「三顧の礼」とは、高い立場の人が有能な人を招くために礼儀をつくして何度も誠意を伝える意味で使われています。

現在でも会社組織を盤石なものにしていくためには、優秀な人材の獲得がなくしてはありえませんので、人の上に立つ人は、「この人と一緒に仕事がしたい」
と人が集まってくるような求心力が必要になってくると思います。

劉備のような自分にとって必要な存在であれば、立場などは関係なく、礼を尽くして謙る姿勢があったからこそ、その後の劉備を支えつづけた諸葛亮孔明という人材を迎え入れることができたのでしょう。

日本でも“実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな”という諺はよく聞かれますが、偉い立場であったり年長者の立場である人ほど、他人に対して偉そうな態度はとらずに謙虚な姿勢で接することを心がけることが客観的にその人の魅力を高めることにつながるのかもしれませんね。

参考文献:三国志故事物語(河出書房新社)